影絵のレンズ 3

 翌日。土曜。

 僕は朝から地図の表示された画面と睨み合っていた。

 目的はもちろん、レンズが訪れたという住宅地の中の喫茶店である。

 気まぐれに通った道のほとんどを、レンズは覚えていなかった。とはいえ徒歩圏内の、ごく狭いエリアの話である。地図サイトと口コミサイトを使うと、思いの外あっさりと、それらしい店を見つけることが出来た。住宅地と言うことで、飲食店自体珍しかったのが早々に特定できた要因だろう。これが駅周辺の話だったりすると、途端に飲食店の数が増えるので手間が掛かる。

 地図上でルートを確認し、家を出たのが昼前。目的の店には、おおよそ一時間程度で到着した。

 住宅地の外れに建つ、蔓植物に覆われた小さな建物。屋根の色も外壁の色も、レンズから聞いたとおりのものだった。間違いないだろう。

 ドアを引くと、かろん、とまろやかなベルの音がした。見上げると、真鍮のベルが頭上で揺れている。録音ではないのか、と少し驚いた。

 店内は、おおむねレンズの言っていたとおりの内装だった。ミルク色の壁。飴色のテーブルと椅子。高い天井。ゆったりと回るファン。各所に飾られた絵画と花。レンズの描写力の高さに感心した。

 唯一、レンズが一切触れていなかった特徴がある。それはレンズには見えていないもので、言及していないのは当然だった。

 蜘蛛だ。

 影絵の蜘蛛。

 高い天井に巣をかけた、大きな蜘蛛。大型犬くらいはありそうなサイズ感だ。影絵の巣の中心で、じっとしている。

 そしてその横に、レンズがいた。

 影絵のレンズが、影絵の蜘蛛の巣に絡め取られていた。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から、女性が一人、顔を出した。店主だろうか。エプロンを着けた、三十代半ばぐらいの女性。くしゃっとしたパーマのかかった、茶色い髪。襟にレースをあしらったブラウス。一見するとおっとりとした雰囲気の風貌だが、実際はどうだろう。こちらを見る、妙に意味ありげな目つきが気になった。

 お好きな席へ、と勧められて、隅の方のテーブル席を選ぶ。カウンターであの店主と向かい合うのが嫌だったのと、ここからなら自然な体勢で影絵の観察が出来るからだ。

 冷たい紅茶を注文すると、ものの一分ほどでグラスが運ばれてきた。赤茶色の液体で満たされたグラスに、ガムシロップを注ぐ。透明なものがゆっくりと沈み、底の辺りでもやもやと対流する様が見えた。

 この現象がシュリーレン現象と呼ばれるものだと僕に教えたのは、レンズの兄だった。今でこそ滅茶苦茶に嫌われているけれど、小さい頃──具体的には、レンズの神隠し事件が起きる前──は、わりと仲良しだったのである。兄弟のいない僕にとって、レンズの兄は自分にとっても兄のような存在だった。だからこそ、嫌われたと気付いた時にはそれなりに傷ついて落ち込んだりもした。

 懐かしい話だ。今となっては、どうでもいい話だが。

 ストローをマドラー代わりに、紅茶をかき混ぜる。もやもやとしていたガムシロップは紅茶と混ざり合い、すぐに見えなくなった。

 僕は紅茶を飲みながら、そっと天井に張り巡らされた巣を見上げた。

 改めて見てみると、捕らえられているのはレンズだけではなかった。いくつか、黒い塊がある。普通に考えれば、あの中身は巣に掛かった獲物だろう。蜘蛛の中には、獲物を糸でぐるぐる巻きにしてから噛みついて、消化液を注入する種類がいる。天井にいる影絵蜘蛛も、そういう生態なのだろう。

 そう考えると、まだ糸で巻かれていない影絵のレンズには、猶予があると言えなくもない。もちろん、かなり楽観的な考えではある。でも希望は捨てないでおいたほうがいい。将来に対する希望は、行動を起こすための重要なエネルギー源だ。悲観ばかりでは、人間は動けない。

 巣に絡め取られた影絵のレンズは、ぴくりとも動かなかった。磔にされたような状態で、頭を垂れている。影絵なので、表情はない。表情がないので、本人の健康状態は推測できなかった。まったく動かないのは、単純に蜘蛛の糸が強固なせいなのか。それとも本体であるレンズ同様、具合が悪くて動けないのか。あるいは、あきらめの境地で静かにその時を待っているのか。そもそも生死すら、この距離では推し量るのが難しい。

 それにしても、どうして影絵のレンズは蜘蛛に捕まってしまったのだろう。巣を張る蜘蛛は、待ちの戦法だ。こちらから飛び込みでもしなければ、巣に掛かる事はないと思うのだけれど。

 そう考えたところで、思い出したのはサイコさんのことだった。

 マガハラサイコ。蟹の影絵につかれた魔女。

 彼女についていた影絵蟹は、タカアシガニのような特徴と、ガザミのような特徴を併せ持っていた。現実には存在しない、アンバランスな姿。『蟹』と聞いて思い浮かべた特徴をひとまとめにしたようなその姿から言えるのは、影絵はあくまでも影絵で、実際の生物とは似ていることはあれど、それそのものではない、ということだろう。

 となると、目の前の蜘蛛もそうなのかもしれない。『蜘蛛』という生物から連想される要素の集合体。そうであるなら、あの影絵蜘蛛は巣を離れて直接獲物を追うことも、あるのかもしれない。ある種の蜘蛛のように、糸を編んで投網のようにして投げることもあるのかもしれない。

 影絵蜘蛛は今のところ、巣の真ん中に陣取って動かない。でもそれは、常にそうであるということを意味しない。あれが動き出し、するすると壁を伝い、床に降りてきて──その様を想像すると、脚がむずむずした。

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