影絵のレンズ 2
レンズはその日、午前中の授業を受けて早退した。
帰宅途中、気まぐれに知らない道へ入り、住宅地の中を彷徨い歩いた。それ自体はいつもの事だったのだが、この日はコンディションが悪かった。その日は昼近くまで雨が降り、その後は一転してよく晴れた。気温と湿度は急上昇し、昼を過ぎた頃から蒸し暑くなった。そんな日にふらふら出歩いたせいだろう。早々にレンズは具合が悪くなった。
そんなときに、その店を見つけた。
住宅地の外れ。高台にぽつんと立つ、小さな喫茶店だった。白い外壁と、赤茶色の屋根。青々とした蔓植物が、こぢんまりとした建物の半分ほどを覆い隠していた。猫の額ほどの庭があり、そこには色とりどりの花が咲く花壇があった。遠目では、一般の住宅にしか見えなかった。看板が出ていなければ、気付かないまま通り過ぎていただろう。
店内は、落ち着いた雰囲気があった。ミルク色の壁と、艶のある飴色をしたテーブルと椅子。見上げた天井は高く、大きなファンがゆっくりと回っている。窓辺には鉢植えが、テーブルには一輪挿しが飾られている。空調が効いていたのはもちろんだが、建物を覆う蔓植物によって日陰が作られており、心地よい涼しさに満たされていた。
レンズはその店で二時間ほど休憩を取ったという。適度に涼しく、静かで、穏やかな雰囲気の店を気に入って、つい長居をした。時間が許せば、あと一時間は居たかったらしい。
◇◇◇◆
「──店を出るときだったんだけどね」
レンズは時折、ふうっと熱っぽい息を吐きながら、店について話し続けた。正直、あまりいいことではないと思ったが、それ以上にレンズの話が気になり、僕は話を止めることはしなかった。
「上手く言えないんだけど、なにか……置いてきてしまった気がする、というか……」
「忘れ物、ということ?」
「ううん、そうじゃない。持ち物は、確認したから……そうじゃないの」
レンズは繰り返し、否定した。
「店を出た瞬間に……すとん、て。なにか落としたみたいな、変な感じがして……足元を見たけど、なにもなかった……だから、気のせいだと思ったの。でも、ずっと変な感じがしてて……」
「なにかを置いてきたような感じ?」
「そう……変に身軽で、すかすかしてて……不安になる感じ……」
レンズは熱っぽい息を吐く。額にぽつぽつと汗が浮かんでいた。僕は濡らしたタオルで、それをそっと拭う。それくらいしか、僕に出来ることはなかった。
「帰ってからも、なんか……変な感じで……もう少し、居たかったなって、心残りのせい、かなって……思ったんだけど……」
そこまで話して、レンズは一度目を閉じた。眠ったのかと思うほどの間を開けて、再び瞼を上げる。
「その、次の日の朝かな……起きたら、身体が動かなくて……関係、ないのかもしれないけど……」
「その、なにかを置いてきたような感じは、今もある?」
レンズはしばらく考えてから、小さく頷いた。
「……でも、関係ない、かな」
「どうだろう」
僕は医者ではないので、レンズの発熱とその感覚の関係性は判断できない。
ただ一つ気になるのは、病室に入った瞬間に感じた『薄さ』だった。
なにかを置いてきてしまった。
それは比喩でも何でもなく、本当にそうなのではないだろうか。
レンズの希薄さは、それが原因なのではないだろうか。
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