見えない影絵、見えない人間 2

 電車に乗ってからも、ヤマヤドリは沈黙を貫いた。他の話題ならそれなりに反応があるが、お兄さんに関しては無言一辺倒。一切反応しない。表情が揺らぐことすらなかった。

 ヤマヤドリの表情が乏しいのはいつものことだけれど、これはそれとはまた違う気がした。普段の緩やかな無表情とは違う。意図して表情が変わらないようにしているのだと思う。こうなると、なにを考えているのか推し量るのは難しい。

 私は諦めて、それ以上は聞かないことにした。

 ヤマヤドリは、確か、小さい頃はここまでわかりにくい人ではなかったはずだ。大人しい子ではあっても、まったく感情が読めないということはなかった──という知識はある。けれど私には実感できるほどの記憶が無いので、実際のところはどうだったのかわからない。

 私の記憶は、ある一点──具体的には、小学校二年生の秋から性質が変わってしまっている。それ以前の記憶は、情報として残っているだけだ。どこの保育園に通っていたか。小学校はどこにあったか。何組に属していて、どこに座っていたか。クラスメイトは誰で、担任は誰だったか。そういう情報はきちんと覚えている。けれど具体的な、こんな話をした、こんなことがあった、という記憶は一つも無い。

 それはヤマヤドリに関する記憶も同じだった。保育園から一緒で、よく遊んだ間柄。そういう情報はあるけれど、実際に保育園でどんな遊びをしていたかは一つも覚えていない。いつ、どこで、どんな風に会ったのか。どこで好き嫌いを知ったのか。私はそれらを一つも覚えていない。きちんと覚えているのは、二年生の秋以降の出来事だけだ。

 いわゆる『思い出』と言うべき記憶だけが、ごっそりなくなっている。

 私の記憶がそんな風になってしまったのは、神隠しが原因だった。


 ◇◇◇◆


 私はその日、ヤマヤドリと喧嘩をした──らしい。

 この辺りの経緯は後から聞いた話で、私の記憶には残っていない。気がついたら病院にいて、ぼんやりしていたら看護師さんがやってきた。看護師さんは少し驚いた顔になったけれど、その後は優しく笑って、穏やかに話しかけてくれた。

 いわゆる『思い出』と言われるものの中で、もっとも古いものは間違いなくこの時のものだ。それ以前の記憶は、もうこのときにはなくなっていた。情報だけは持っていたから、両親のことも兄のこともわかったけれど、家族の話す『思い出』には一つも心当たりが無かった。

 当然、自分の身になにが起きたかも私は記憶していなかった。だから、それについては後日、担当医と両親から教えて貰った。

 私は二週間、行方不明になっていた。

 ヤマヤドリと喧嘩別れをして、そしてそれきり私は忽然と姿を消した。そのまま何の音沙汰もなく二週間、行方知れずになっていたという。

 正直、ぴんとこなかった。その二週間に限らず、記憶が抜けているせいだ。断片的な記憶すら思い出せない。ヤマヤドリとの喧嘩すら覚えていない。でも、ヤマヤドリというのが誰のことなのかはわかっている。

 不思議な感覚だった。ものの名前も人の顔も知っているのに、それらをいつどこで知ったのかはわからない。道具の使い方も食べ物の味も知っているのに、それを身につけた記憶は一つも無い。経緯が消えて、結果だけが残っている。『それまでの生活』があったという実感すらないのに、それまで通りの生活が出来る。

 だから、混乱はあまりなかった。

 けれど、実感もなかった。

 私の記憶はあまりにもまっさらで、なんの感慨も沸いてこなかった。空虚さだけがあった。その虚しさが、自分が確かになにかを失ったのだと感じさせた。でも、失ったものについてなにも覚えていない。だから悲しくはならなかった。ただただ、ぽかんとするしかなかった。

 実を言うと、それが悪いことだったとは、あまり思っていない。もし少しでも、ほんの僅かにでも記憶が残っていれば、こうはいかなかったと思う。きっと、その断片的な記憶が気になって、何度も思い返しては戻らない記憶に悶々とさせられただろう。まったくの無というのは、そういう意味では悪いものではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る