見えない影絵、見えない人間

見えない影絵、見えない人間 1

 太郎橋駅近くで開催されるイベントからの帰りだった。

 電車の出発時間まで余裕があったので、駅ビル内にあるコーヒーショップで時間を潰していると、見覚えのある人が窓の外にいることに気付いた。近所に住んでいる専門学校生のお兄さんだ。

 お兄さんは、駅前に置かれたよくわからないオブジェの前で、同い年くらいの女の人と立ち話をしていた。

「……レンズ? どうした」

 窓の外を見て黙り込んだ私を、訝しんだのだろう。ミルクティーを冷まそうとくるくるかき混ぜていたヤマヤドリが、私を呼ぶ。

「うん。知り合いがいて……」

 あの人、と私が指したほうを見て、ヤマヤドリはすっと眉間にしわを寄せた。嫌なものを見てしまったとでも言いたげな表情。どうしたのだろう。特に、嫌なものは見当たらないけれど。

「知り合いなのか」

「近所の人だよ」

「親しい?」

「え? うーん……小さい頃は時々遊んで貰った。今も、会えば挨拶はするし、たまに世間話くらいはするかな」

「そうか」

 ヤマヤドリは険しい顔でお兄さんを見つめている。

 どうしたのだろう。思わぬ反応に内心おろおろとしていると、お兄さんがこちらに気付いた。にこっと微笑んで、私に手を振ってくる。会釈をすると、お兄さんは女性と別れて、こちらへやってきた。コーヒーを注文して、私たちのテーブルにやってくる。

「やあ、久しぶり。──ここ、いいかい?」

「私は構いませんけど……」

 ヤマヤドリは、どうだろう。そっと顔を窺うと、そこにはもう、なんの感情も浮かんでいない無表情があった。普通なら怒っているのかと思うところだけれど、ヤマヤドリの場合はこれが通常モードだ。彼は、感情が表情に出ない。昔からそうだった──わけでは、ないらしいけど。

 無反応のヤマヤドリを気にすることなく、お兄さんは私の隣に座った。スティックシュガーを三本も持っている。筋金入りの甘党なのだ。

「久しぶりだね。最近はなかなか会えなくて寂しかったよ」

 そう言いながら、さらさらとグラニュー糖をコーヒーへ注ぎ入れる。白い粒が滑らかに落ちていく様は、瀑布のような趣があった。

「そんなことないでしょう? 聞いてますよ。しょっちゅう、彼女さんとあちこち遊びに行ってるって。さっきの人が、そうですか?」

「いや、あの子はバイト先の後輩。──ところで、俺が遊び歩いてるって? 誰がそんなこと言ったんだ?」

「母から。小母さんがあちこちで愚痴ってますよ」

「やあ、恥ずかしいなあ。母さんたら、口が軽いんだから」

「心配してるんですよ。ちゃんと卒業できるのかしらーって」

「そんなことまで話してるのか。困ったもんだなあ」

「実際、大丈夫なんですか?」

「やー、まあ、それは……ねえ?」

 誤魔化すように笑う。どうやら、小母さんの不安は的外れではないらしい。

 私たちが話す間、ヤマヤドリは沈黙を守っていた。目を伏せて、じっと動かない。その視線はテーブルに置かれたミルクティーにまっすぐ注がれている。ずいぶん冷めたはずだが、手をつける気配はない。

 どうしたのかと様子を窺っていると、お兄さんが突然、ヤマヤドリの方へ身を乗り出した。

「やあ、彼氏。ずいぶん無口なんだな、君は」

 ぎょっとしたヤマヤドリに、にこっと微笑みかける。

「そんな態度じゃ、女の子が退屈しちゃうぞ?」

「あなたとは話したくない。それだけです」

 ヤマヤドリは心底嫌そうな声で、そんなことを言った。無礼な言葉に、お兄さんが目を剥く。私はぎょっとして、ヤマヤドリの顔をまじまじと見つめてしまった。

「あー……理由を聞いてもいいかな?」

「巻き添えを食いたくないので」

「なんの?」

「気付いていないんですか」

 ヤマヤドリは少し苛立った様子だった。

 お兄さんは最初、呆気にとられた顔でヤマヤドリを見返していた。けれど、やがてそれは苦笑いに変わっていく。

「……彼氏に、嫉妬させちゃったみたいだね」

 笑いを含んだ声で、からかうように言う。

「悪かったよ。俺たちが仲良くしてるのが、妬ましかったんだろ? 彼女が、自分といる時よりも楽しそうにしてるのが気にくわないんだろ。でも、心配しなくて良い。女の子って言うのは、男に頼りがいやサービス精神を求めるものだからね。そういうのは、同世代より歳上の方が上手なものさ。年の功って奴。だから──」

「見当違いの説教は不要です」

 切り捨てるようなヤマヤドリの言葉に、お兄さんは顔を歪めた。明らかに、気分を害した顔だ。私は焦り、そして途方に暮れる。初対面のお兄さんに対して、なぜこんなにも態度が悪いのか。これまでの振る舞いを思い返しても、理由が思い当たらなかった。かといって、理由もなくヤマヤドリが攻撃的になるとは思えない。なにか理由があるはずなのに、その理由がわからない。そのせいで、私はこの場でどう振る舞ったらいいのかまったくわからなくなっていた。

 嫌な沈黙が数秒、テーブルを支配した。

「……俺、帰るね」

「あ、ええと……」

「また遊ぼう。今度は、邪魔者のいないときに」

 にこりと微笑んで、お兄さんは席を立った。まだ熱いであろうコーヒーをぐいとあおって飲み干すと、早足に店を出て行った。振り返ることはなかった。

「……ヤマヤドリ。本当に、どうしたの?」

「どうもしない」

 ヤマヤドリは居心地の悪そうな顔でミルクティーのカップを手に取った。ぬるくなったそれを一口のみ、ぼそりと呟く。

「あの人とは関わらないほうがいいと思う」

「どういうこと?」

「…………」

 肝心な質問に、答えがない。

 私は少し苛立った。

「理由もなしに『関わるな』なんて、納得できるわけないでしょ?」

 ヤマヤドリは、なにも言わない。無言のままミルクティーを飲み干すと、さっと席を立った。

「ちょっと、」

「時間。そろそろだろ」

 ヤマヤドリは素っ気なくそう言って、さっさと店を出ようとする。

「え? ああ、そうだけど……ねえってば」

 私は慌ててその背中を追いかけた。

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