過去と影絵とサイコさん 6

 あの日も、こんな風に世界は朱色に染まっていた。

 僕とレンズは、その日、たぶん初めて喧嘩をした。帰り道で、ほんの些細なことで言い合いになった僕らは、いつもなら家の近くまで一緒に帰るところを、途中で別れた。──いや、この言い方はあまりにも保身に走っている。正確には、僕がレンズを置き去りにして帰ったのだ。当時は今と違い、僕は走るのが得意で、レンズは苦手だった。だからレンズを振り切って帰ることは簡単だった。

 レンズは帰り道の途中で置き去りになって──そしてそのまま姿を消した。

 見つかったのは、二週間ほどが過ぎた頃だった。

 河原を歩くレンズを巡回中の警察官が見つけ、保護された。幸いにも怪我はなく、軽度の脱水と栄養失調の症状が見られる程度だった。ただ、レンズは行方不明だった二週間のことを、なにも覚えていなかった。どこにいたのか、どうやって過ごしていたのか、レンズはなにも覚えていなかった。

 レンズとの面会を許可されたのは、発見から更に十日ほど経ってからだった。まだレンズは入院中で、僕は両親と祖父に連れられて、病室を訪ねた。

 再会したレンズは、一見、なにも変化がないようだった。僕が置き去りにしたことを責めることもなく、退院したらあれをしようこれをしようと、無邪気に話していた。それに対して、僕は生返事を返すことしか出来なかった。

 レンズの隣に、レンズそっくりの影絵がいたから。

「──……ね、聞いてる? ヤマヤドリ」

「うん?」

 意識が過去の記憶から、現在へと引き戻される。

 こちらを見上げるレンズは、何処か不安そうな顔のままだ。

「なんか、変だよ。どうしたの、ヤマヤドリ」

「別に、なにもない」

「本当?」

「ああ」

「そう……」

 レンズは腑に落ちない顔で、僕を見上げている。

 その後ろに、するりと音もなく。影絵のレンズが近づいた。あっと思う間もなく影絵のレンズはレンズに重なり、そして一つになる。

「……レンズ」

「なに?」

「…………」

 レンズは神隠しに遭い、帰ってきた。

 それを境に、影絵のレンズは現れた。

 サイコさんも、かつて神隠しに遭った。

 そして帰ってきたとき、影絵蟹が現れた。

 二人の身に起きたことは、細部を除けばほぼ同じ出来事だ。

 神隠しと影絵。

 サイコさんとレンズ。

 そこには、どんな関係があるのだろう。

 単なる偶然なのだろうか。

「ヤマヤドリ?」

「……今年は、夏祭り、行けそうか?」

 レンズはきょとんとした顔になった。それから、くすくすと笑い出す。

「なんだよ」

「だって……すごく真剣な顔をしていたから」

「?」

「どんな重要な話が始まるのかと思ったら、お祭りのことなんだもの。肩すかしもいいとこ」

「ああ、いや」

 直前まで、別のことを言おうとしていたんだ、とは言えない。

 僕は、レンズに言おうとしていたのだ。サイコさんがかつて、レンズと同じように神隠しにあっていたことを。そして聞こうとしていた。神隠しに遭ったときのことを。

 レンズはなにも覚えていないと知っているのに、わざわざそんなことを聞いて、どうするつもりだったのだろう。我がことながら、失笑ものだ。そんなことを聞いても、レンズを困らせるだけだとわかっているのに。

 うっかり聞かなくてよかった。

「去年は、行けなかっただろ」

「うん、そうだったね」

 レンズは花のように微笑んだ。

「大丈夫。今年は行けるよ」

「そうか。じゃあ──」

「一緒に行こうね」

「ああ」

 気付けば、レンズの家の近くまで来ていた。

「おやすみ、ヤマヤドリ」

「おやすみ、レンズ」

 手を振って、レンズは自宅へと帰っていく。その背中が玄関の向こうに消えるまで見送って、僕は歩みを再開した。

 いつかのような朱色の景色の中を、一人。

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