過去と影絵とサイコさん 4

 サイコさんが神隠しに遭ったのは、小学四年生の時だった。

 その日は図書館に長居をしたせいで、帰りが少し遅くなった。既に陽は落ちて帰り道は薄暗く、街灯が灯り始めていた。

 蒼い街の中を早足で駆け抜ける。

 いつも歩いている道が、今はどこかの知らない街のように見えて、心細かった。

 ──早く、帰らないと……。

 焦りに速まる足で、坂を駆け上る。いつもは途中で休まないと登り切れない急な坂も、その日は一息で登り切ることが出来た。

 坂を登り切った場所で、さすがに足が止まる。

 乱れた呼吸を整えようと、深呼吸を繰り返す。ひやりとした冷たい空気が、肺腑をひりつかせた。

 ふう、と息を吐き、なんとはなしに振り返る。

 坂の上からは、白い街灯に照らされた坂道と、夕闇に沈む町並みが一望できた。

 そこで、サイコさんの記憶は途切れている。


◇◇◇◆


「──なにがあったのかは、覚えていないの」

 サイコさんはケーキを食べながら、そう言った。

「気がついたら病院で、一ヶ月が過ぎていた。後で聞いた話だと、私はあの日の夕方に行方不明になっていて、一ヶ月後に実家近くの河川敷に倒れているところを発見されたんですって。お医者様が言うには軽度の脱水と栄養失調はあったけれど、大きな怪我はなかったそうよ」

 僕は、なんと返せばいいのかわからず、黙ってコーヒーを飲んだ。苦い。

「あの蟹に気がついたのは、それから三ヶ月くらい後かしら。家にいたら、突然あれが出てきて、驚いた。悲鳴を上げたら両親がやってきたけれど、両親にはあれは見えていなかった。どれだけ訴えても、怖いものなんていないよと言うばかりだった。蟹はすぐにいなくなったけれど、その日は眠ることが出来なかった」

 かちり、とフォークが皿とぶつかって小さな音を立てる。

 サイコさんはちらりとこちらを一瞥した。意味ありげな視線。だがその意味は僕にはわからない。言いようのない居心地の悪さを感じて、僕は視線を手元に落とした。

「……最初は、怖かった。けれど、すぐに慣れたわ。あれは私から出てくるけれど、私になにもしてこない。あれが出てきたからって、私になにか不調が起きるわけでもなかったから。慣れなかったのは、周りの人間がおかしくなった事ね」

「おかしく……?」

「知ってるかしら? 私の取り巻きたち」

 クラスメイトの女子生徒が話していたことを思い出す。

 信者じみた振る舞いの、サイコさんの取り巻きたち。

「知ってます。僕に手紙を届けた先輩も、その一人ですよね」

「ええ。──彼女たちは、私を信奉している。私の言うことならなんでも聞くし、私のためならどんな事だってしてくれる。でもね、それは私が意図してそうさせているわけではないのよ」

「どういう意味です」

「私は普通に生活しているだけ。占いは、ただの趣味。なのに彼女たちは勝手に私の周りに集まって、私を信奉している。──彼女、様子が変だと思わなかった?」

 彼女というのは、手紙を持ってきた先輩のことだろう。彫像のように動かず、無表情で僕の席に座っていた姿は、確かに変だった。その後に見た、ゼンマイ仕掛けの人形じみた仕草や、妙な笑顔も、異様と言っていいものだった。

「たまにいるのよ。私と関わると、ああしておかしくなる人が」

「それは、神隠しに遭ってからなんですか?」

「ええ。それまでは、そんなことなかった」

 サイコさんは、ふふふ、と少し不気味に笑った。

「あの、女の子」

「?」

「レンズさんと言うの?」

「ああ、はい」

「お友達?」

「そうですね」

「そう。──あの子にも、ついているものがあるでしょう。あの子そっくりの、黒い影」

「……はい」

 僕は素直に肯定した。すでに知られているなら、ここで隠しても意味はない。ごまかしがきくタイプの人でもないだろうし、時間の無駄だ。

「私、見たことがあるのよ。あの子の影が、他の人の影を捕まえて、吸収するところ」

「…………」

「私の影も、そうしてくれるかと思ったんだけれど、ね」

「……この前、レンズの通せんぼうをしていたのは、それが目的ですか」

「ええ。でも駄目だった。出てきてすらくれなかったわ」

 サイコさんは残念そうに、ため息を吐いた。

「お別れできるかと、思ったのだけどね」

「お別れしたいんですか」

「そうね。実害がないとはいえ、やっぱり気味が悪いし。それに、これから先もそうだとは限らないでしょう?」

「そうですね」

 影絵については、わからないことばかりだ。なにが起きても、おかしくない。ある日突然、宿主に対して牙を剥く可能性だって否定できない。

「まあ、失敗してしまった以上、もうあの子に関わる理由はないわ」

「そうですか」

 それはよかった、と言いそうになって、慌てて口を噤む。

 サイコさんは言わなかった言葉もお見通しのようで、ふふふ、と低く笑った。

「安心して頂戴。もうあの子には近づかない。卒業したら遠くの高校へ行く予定だから、街中でうっかり近づく心配もないわ」

「そう、ですか」

「君、それを確認するためにここへ来たんでしょう?」

 その通りだ。僕は、サイコさんが今後もレンズと関わる気でいるのかどうかを確かめるために、ここへ来た。今回は僕がたまたまその場面に出くわしたからよかったものの、今後もタイミング良く二人が接触する場面に立ち会えるとは限らない。そしてその場合、レンズの身になにが起きるのか、僕には想像もつかない。けれど悪い影響を及ぼす可能性がある以上、捨て置くことは出来なかった。

「私がこれからも、あの子と接触するつもりだと言ったら、どうする気だったの?」

「わかりません」

 僕は嘘を吐いた。

 どうするかなど、もう決まり切っていた。

 僕は彼女を排除しただろう。かつて、先生を排除したように。どのような手段を使ってでも、レンズとサイコさんが再び接触する前に、彼女を排除したはずだ。

 僕はそのつもりだったから、わざわざ重たい鞄を持ってここに来たのだ。

「……そう」

 サイコさんは薄く微笑んだ。

 全てを見通しているような、不気味な微笑みだった。

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