影絵とレンズ 2

 たどり着いた家は、新地の中でも特に新しい区画にあった。クリーム色の外壁とチョコレート色の屋根の、なんだか妙に美味しそうな家だった。レンズ曰く、若い夫婦が住んでいて、妻の方が妊娠しているらしい。

「そんなことまで調べたのか」

「朝、時々見かけるの。お腹の大きい奥さんが、スーツ姿の旦那さん見送るところ」

「それは、その家を見上げる人が通るのより前?」

「ううん、後」

 その人が見上げているのは、家なのだろうか。住民なのだろうか。通り過ぎ様に見上げてみると、二階の窓辺に置かれた丸くて白いものが目についた。クッションかと思ったが、違う。顔が描いてある。その間抜け面に既視感を覚えて──思い出した。僕らが小学生の頃に流行していたキャラクターだ。元はローカルなキャラクターだったのが、なぜか突然人気に火がつき、一躍人気キャラクターとして躍り出たのだ。一時は、グッズの争奪戦やら転売目的の買い占めによる品薄やらで、色々と問題になった。そのブームは一過性で、半年程度で落ち着きを取り戻し、数年のうちには姿を消した。今では、一部のマニアくらいしか興味はないだろう。

 この家の住民は、あのキャラクターの愛好家なのだろうか。

 そんなことを考えながら、家の前を通り過ぎる。

「ところで、どこで待ち伏せるんだ」

「この先」

 レンズが指さしたのは、少し先にあるバス停だった。色あせた青いベンチが置いてある。近づいてみるとその傷み具合がよくわかった。プラスチック製の背もたれと座面は、経年劣化で角が削れ、白くなっていた。一部は大きく欠け、ひびも入っている。恐る恐る手をかけると、みしっと嫌な音がした。とてもではないが、座る勇気は出ない。なぜ新興住宅地の真ん中に、こんな前時代の遺物じみたアイテムが置いてあるのだろう。

「これ、座って大丈夫なのか」

「大丈夫だよ。たぶん」

「使ってる人、見たことある?」

「ううん。ない」

 ないのかよ。

 躊躇う僕を尻目に、レンズはすとんとベンチに腰を下ろした。やはり嫌な軋みが聞こえたが、座面がいきなり割れるような事態にはならなかった。レンズが僕を見上げてにっこり笑って、手のひらでベンチを叩く。座れというのか。この廃墟みたいなベンチに。ものすごく嫌だったが、結局、座った。正直に言うが、僕はレンズの笑顔に弱いのだ。

 不安になるベンチに座って、目当ての人が来るのを待つ。

 さあーっというノイズの後に、『夕焼け小焼け』が鳴り響いた。夕方五時の合図だ。ひび割れた放送が、うわんうわんと空を揺らす。スピーカーが近いようだ。

 目の前を、買い物袋を下げた中年女性が通り過ぎる。

 その背中に、黒い影絵のようなトカゲが張り付いているのを見た気がして、僕は目をそらした。

「そういえば、知ってる?」

 僕の行動を見ていなかったレンズは、不自然な動作には気付かなかったらしい。放送の余韻が残る中、何事もなかったという態度で話しかけてきた。

「三年生が、首を吊ったって」

「……ああ」

 先月のことだ。三年生の男子生徒が、自宅で首を吊った。自殺だった。遺書があったそうだ。その遺書の文面がどこからか漏れ出てきたのは、彼が死んで一週間ほどしたころだった。

 その内容は、正直、少し理解しがたい。

『幸せになれた。これ以上は、もうきっとない』

 不幸だから、からではない。幸せだから、死ぬ。

 不幸だから、ならわかるのだ。幸せではない現状に絶望した。だから、死ぬ。それなら理解できる。人によっては共感も出来るだろう。僕らくらいの年齢になれば、大なり小なり絶望を味わった経験の一つくらいある。そして、絶望が人を死に誘うものであることを知っている。死という選択肢があることを囁いてくるものだと、身を以て知っている。それを知らないのは、幸運にも絶望を知らずに生きている人間か、でなければその囁きの意味も理解できない愚か者ぐらいだ。

 けれど、彼は違う。

 幸せだから、死んだのだ。

 実際、噂に聞く彼は幸せそうだった。成績は人並みだが、決して悲惨なものではなく、友人もそれなりにいた。部活動では優秀な成績を出しており、チームメイトからの信頼は厚かった。噂通りならば、交際していた相手もいたという。本人も書き残したように、彼は幸せだったのだろう。

 だからこそ、その死は周囲から理解されなかった。なぜ、幸せなのに死ぬのか。幸せでなくなったから死ぬのではなく、幸せな中で死ぬのはなぜなのか。理解に苦しむ人は多かった。

 どうやらレンズも、その一人だったようだ。

「なんで幸せなのに、死ぬのかな」

「これ以上がないからだろ」

「それって、人生で一番幸せってことでしょ。いいことじゃない」

「てっぺんまで行ったら、あとは下るしかない」

 これ以上がない幸せというのは、これ以上は幸せになれないという意味だ。どれだけ努力しようと、工夫しようと、今以上のものは手に入らない。

「どうして、そうなるの? 将来の事なんて、わからないでしょ」

「わからない。だからこそ、悲観するんだろ。今より幸せになれる自信が無いから」

 そして将来を悲観して死ぬことは、珍しくない。

 ふと我に返るように今の自分の現実を見つめ直し、これから先も生きていかなくてはいけない事実に打ちのめされることは、珍しくないのだ。

「なんか、贅沢ね」

 レンズは暗い顔で呟く。

「今が幸せじゃない人からしたら、今が幸せなだけで羨ましい話じゃない」

「そうだな」

「それに、決定的ななにかがあったわけじゃないんでしょう。漠然とした将来への不安だけで、自殺なんてできるもの?」

「できるんじゃないか」

 極端な話をすれば、理由などなくとも自殺はできる。その場の勢いや、一時の気分──いわゆる、魔が差して自殺することだってあるのだ。些細な理由で自殺することくらい、驚くべき事ではない。

「でも、そんなの……」

 レンズが言葉を切り、はっと顔を上げた。

 東の方から、人が歩いてくるのが見えた。西日が真っ向から差し込む道を、眩しそうに下を向いてやってくる。二十代半ばくらいの、猫背気味な女性だ。灰色のスーツ姿で、黒い皮のバッグを肩にかけている。鉛の靴でも履いているかのように、重く疲れた足取りだった。

「レンズ」

 じっと見つめるレンズの袖を引く。よく知らない人の──いや、知っている相手だったとしても、じろじろと見るのは褒められた行為ではない。最悪、不審者扱いされかねない行為だ。

 レンズはそっと目をそらすと、鞄から携帯端末を引っ張り出した。適当なアプリケーションを開く。僕はそれを横から覗き込んだ。やや不自然な姿勢だが、まあ、なくはないだろう。画面に表示された猫動画を見るふりをしながら、女性の様子を窺う。

 ゆっくりと歩いてきた女性は、件の美味しそうな家の前で足を止めた。顔を上げ、眩しそうに家を見上げる。どこか恨めしそうな、羨ましそうな横顔。レンズが言っていたとおりだ。

 僕らは無言で視線を交わす。レンズの目は、どう思う? と僕に問いかけている。僕はそれに対する答えを持っていない。

 じっと家を見上げる女性。こっそり観察していると、その肩に黒いものがぬっと顔を出した。もったりとした黒く丸い影。デフォルメされた芋虫のようなそれが、女性の動きを真似るように、ぬうっと家に向かって伸び上がる。

 嫌なものを見た。

 僕は目をそらした。

 女性はしばらくそうして見上げた後、家の前を離れた。こつこつとパンプスがアスファルトを叩く音が近づき、そして僕らの前を通り過ぎていく。視界の端を、黒いパンプスを履いた脚がかすめていった。

 足音は徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなる。それを待って、僕は顔を上げた。辺りを見回し、女性が立ち去ったことを確かめる。

「……どう?」

 レンズがおずおずと問う。

「あれ、毎回あんな感じなのか」

「うん。いつも、あんな感じ」

「そうか」

「どう思う?」

 再度、問われる。

「……あまり関わらない方がいいと思う」

 僕は動揺が悟られないよう、努めて平坦な声で答えた。

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