影絵のレンズ
在原一二三
影絵とレンズ
影絵とレンズ 1
西日の差し込む公園に入ると、影法師のようなレンズがいた。
長い黒髪を背中に流し、黒いセーラー服を着ている。色白なこともあって、色彩の乏しい外見をしている。これはなにも制服姿だからというわけではない、レンズは私服でも黒を好んだ。それはもう、保育園に通っていた頃からの筋金入りで、もはや彼女を表すアイコンの一つとして固定されたイメージとなっている。今更、赤や青の鮮やかな色をした服装をされたら、それまでの固定観念が一気に崩壊して混乱することは想像に難くない。それくらいに、レンズと黒色は強固に結びつけられていた。
レンズは物憂げな顔で、ブランコに腰掛け、気怠げにそれを揺らしていた。実際のところ、なにかを憂えているわけではないだろう。あれは単に、地顔がそういう印象だというだけだ。気怠げに見えるのは、表情から派生した印象にすぎない。つまり、気のせいだ。
「レンズ」
声をかけると、レンズはすうっと顔を上げた。
「ヤマヤドリ」
僕の名前を口にするとき、表情が明るくなったように見えた。そう感じたのは僕の願望が多量に反映された一種の幻覚で、実際は顔を上げたことで光の当たり方が変わっただけかもしれない。客観的な判別は僕には困難だったので、その点について考えるのは止めておく。
「今日は、登校したのか」
「うん。午後からだけど」
レンズは億劫そうな仕草で立ち上がった。くしゃりと丸まっていたスカートのプリーツが、綺麗に広がって花のように揺れる。
レンズは、有り体に言えば不登校児だ。小学校の頃は皆勤だったのが、中学に上がった途端、休みがちになった。それでも時々、こうして制服を着て登校しているので、完全に嫌になったわけではないらしい。
頭の硬い親を持つ僕からすると、学校に行きたくないという訴えに耳を貸し、実際に休むことを認めてくれるレンズの親は、単純に羨ましい存在だった。厳密には、そんな親を持つレンズが羨ましい。代われるものなら変わって欲しいくらい羨ましい。だからこそ、それでも時々は登校するレンズのことは若干、理解し難い。僕が同じ状況だったら、十中八九、一度も登校せずに中学生活を終えるだろう。こういうところに、地の性格や価値観の違いが如実に出る。
レンズは、根が真面目なのである。僕とは違って。
「帰ろうか」
「うん」
連れだって、公園を出る。まっすぐ帰ることはほとんどない。レンズは、普段家に籠もっていることが多い分、いざ外に出るとなかなか帰りたがらない。僕の役目は、そんなレンズを見張りつつ、適当な時間までに家まで送り届けることだった。
ふらふらと、あてもなく住宅地の中を彷徨う。なにが面白いのかはわからないが、レンズは住宅地を好んだ。逆に市街地はあまり好きではないらしく、適当に歩いているようでも街方面には近寄らない。そういう傾向があることを把握したのはわりと最近のことだ。
僕らの住む地域の住宅地は、旧地と新地にわけられる。
旧地は昔からある古い住宅地で、平坦な道が多い。時間経過に伴い徐々に開発が進んで家が増えた地域なので、町並みは雑然としている。道が入り組んでいるし、建ち並ぶ家も個性豊かだ。
新地は、比較的最近になって開発された住宅地。山の斜面を削って作られた住宅地なので、坂が多い。ある時期に一斉に区画整備されたため、道は直線的で、ならぶ家も無個性で似たような雰囲気のものばかりだった。
レンズの散歩は、主に旧地だった。理由は単純で、坂の上り下りを避けているだけである。レンズは虚弱なわけではないが、さりとて汗を流して運動するのが好きなタイプでもない。健康目的ならいざ知らず、単なる散歩でわざわざ疲れる道を選ぶ理由はない。あくまで、この散歩は趣味でしかないのだ。
それが今日は珍しく、新地の方へ足を向けたものだから、僕は少し驚いた。
「今日は、こっちなのか」
「うん。ちょっと、気になることがあって」
「?」
「気のせいかもしれないんだけどね」
レンズは浮かない顔で、話し始めた。
今月に入ってから、レンズは朝の犬の散歩をするように言いつけられた。これは学校へ行かなくなった娘に危機感を覚えた父親からの指示だった。早起きをするのは億劫だったが、父親の危惧するところもよくわかる。レンズは素直にそれを引き受けて、朝の散歩を始めた。朝の七時から、通勤通学の人々に紛れるようにして、父親の定めたルートを散歩して回る。なおレンズの父は健康オタクであり、当然、そのルートは新地を中心とした起伏の激しいものだった。レンズは早々に、引き受けたことを後悔したようだが──それは、ともかく。
その途中で見かける人のことが、レンズは気になっているらしい。
「家をね、見上げるの。じいっと」
「自分の家?」
「ううん」
その人は、いつも西の方から歩いてくる。差し込む朝日に眩しそうに顔をしかめて、俯きがちにやってくる。そしてある家の前まで来ると、歩調を緩めてじいっとその家を見上げるのだという。その目つきは恨めしそうな、悔しそうな、悲しそうな、なんとも表現しがたい独特な雰囲気を持っていて、レンズの気を引いた。
あの人は、なぜああも恨めしげなのだろう。
一度気になってしまうと、簡単には忘れられない。レンズは毎日、意図的に時間を調整して、その人とその家の近くですれ違うようにした。そうして、その人が恨めしげに家を見上げる様を観察しているらしい。
「最初は、朝だけかと思ってたんだけどね」
「違ったのか」
「うん」
ある日の夕刻。たまたま駅前でその人を見かけたレンズは、ついその背中を追いかけてしまった。彼女はやはり俯きがちに西に向かって歩いて行き、そして件の家の前で足を止めた。顔を上げ、その家を見上げている。表情は見えなかったが、想像は簡単にできた。
時間にして、ほんの一分程度だった。やがてその人は視線を下げて、西に歩き去った。
話を聞きながら、僕は率直に、嫌な趣味を見つけたな、と思った。出来るだけ早く、止めさせた方がいい気がする。人間観察なんて、続けていればそのうち性格が悪くなる。ならないのは元から性格が悪い奴だけだ。
とはいえ、どうしたものか。これが単なる好奇心ならともかく、どうも本心から心配している風なのだ。レンズはお人好しをこじらせている人間なので、簡単には諦めてくれないだろう。いや、それならまだ良い方か。レンズの場合、表向き諦めたように振る舞いながら、僕の目の届かないところでこっそりと手出しをする、という行動をとりかねない。それで丸く収まればいいものの、変なトラブルに巻き込まれでもしたら困る。
「……それで。今日も、見に行く気なのか」
「うん。ヤマヤドリには、どう見えるかなって」
「駅から尾行けるのか?」
「待ち伏せ──っていうと言い方が悪いけど、その家の近くで待っていた方が楽だよ。無駄に歩くのは嫌でしょ」
そんなことを言ったら、そもそも見ず知らずの人を観察しに行くこと自体、ぼくは嫌である。気乗りしない。さっさと帰りたいことこの上ないが、それでも僕はレンズの後を追いかけた。
どうせトラブルに巻き込まれるなら、せめて僕の目の届く範囲のほうが、まだマシだ。
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