故意のベクトル

M.S.

故意のベクトル

 もう詳しくは覚えていないけれど、彼と出逢ったのは幼稚園の頃だと思う。家が近かったから一緒の通園バスに乗って、一緒の幼稚園に通った。物心付いたのもその頃だから、それが彼との初めの記憶になる。もしかしたら物心が付いていなかっただけで、それよりもっと幼い内から会っていたかもしれない。

 そう考えると、何で私は零歳から自分の自我をしっかり認識しなかったのかと思う。そうすれば、彼が零歳の頃の寝顔を、何か神様の悪戯いたずらが寄越した運の巡りの下で視姦しかん出来たかもしれないのに。

 もうお互いに十七歳な訳だから。

 彼が零歳の頃の寝顔も彼が一歳の頃の寝顔も彼が二歳の頃の寝顔も彼が三歳の頃の寝顔も彼が四歳の頃の寝顔も彼が五歳の頃の寝顔も彼が六歳の頃の寝顔も彼が七歳の頃の寝顔も彼が八歳の頃の寝顔も彼が九歳の頃の寝顔も彼が十歳の頃の寝顔も彼が十一歳の頃の寝顔も彼が十二歳の頃の寝顔も彼が十三歳の頃の寝顔も彼が十四歳の頃の寝顔も彼が十五歳の頃の寝顔も彼が十六歳の頃の寝顔も、もう見れない。

 ────けれどこの前、十七歳の彼の寝顔を余す所無く目で味わったのだった。

 だからと言ってその一夜の闇の中だけで彼の十六年間をすくえる訳も無い。それが、悔しい。けれどそんな気持ちも、遣る瀬無さが気持ち良い。

 私の性感帯は心にあるようなのに、彼は本当に、いとも容易たやすく触れてくる。それは私が朝目覚める時に、鏡の前で髪に櫛を通す時に、六枚スライスの食パンに乗せた半熟卵が口の中で黄身を溢れさせる時に、歯を磨く時に、ローファーに足を通す時に。全ての事象が彼にことづけられてしまう。

 嗚呼、辛い。


────


 七限、数学の授業を終わらせる鐘が鳴る。

 鐘が鳴っても、〝きりが良い所まで〟とのたまい授業を延長するタイプではないこの学級の数学担当教師は好きだ。先生は掛けていた眼鏡のブリッジを、ぐっ、と押し上げると教科書の大問の途中であるにも関わらずに授業の終了を宣言した。それを聞いて私も「ふぅ」と呼気を漏らさずにはいられない。

 なんと言っても、ずっと自制しているのだ。

 授業中は、授業に集中して無理にでも彼の事を脳の隅に追いらないと、本当に参ってしまう。と言うのも、彼が私と同じ学級でない事がそれを余計助長して、拍車を掛ける。

 教科書の問題を解かされる時間、早めに終えて時間が余ってしまうと手持ち無沙汰になり、同じ教室に居ない分、隣の教室の彼を夢想してしまう。

 同じ制服と同じ性別、という理由だけでもすぐ前の席の男子生徒の背中に、彼の姿を重ねてしまう。

 そんな事はしたくないのに。

 背中を丸めた時に認められる夏服のシャツから浮き出る彼の背骨、椎骨の形は彼だけのものだし、それを知るのは私だけで良い。

 前の席の男子は少し肉が多い所為せいで、その白いシャツの下からの膨隆が肉によるものか骨によるものか、既に解らない。

 そして、解らなくて良い。

 転じて私が知るべき椎骨の形というのも、彼のそれ以外にはあり得ないのだから。

 待ち遠しかったチャイムの音で私の頭は霞が晴れたように切り替わり、脳内は数字と方程式から〝彼〟一色に染まる。

 解剖学の書によると脳味噌というのは薄いピンク色をしているらしいけれど、彼の事を四六時中頭に置いている私の脳味噌というのは絶対に〝彼〟色だと思う。それはどうなんだろう、きっとピンク色よりピンクらしくてみだらかもしれない。脳漿のうしょうに至ってはきっと彼に媚びるようにてらてらぬめっていると思う。

 自分の通学バックに教科書を入れていき、バッグの底面が悲鳴を上げそうな所でチャックをしてあげた。

 たった、と駆けて廊下に出る。左を向けばすぐ三年一組の廊下。出入り口引き戸の上にぶら下がる学級表札の下、本日何千回と夢想した横顔が教室から出てくるのが見えた。もとい、魅えた。


 貴方あなたの脊髄を剥き出しにして、私の口腔を撫で回した歯ブラシでこすってあげたい。そして貴方の口から漏れた喘ぎをスマートフォンに録音したら、毎朝目覚ましのアラームにするのにね。

 貴方程のずるい存在を私は知らないし、〝狡い〟という概念こそが貴方だ。

 そして貴方より狡くあろうとした私がこの前貴方の肩に付けた歯型は残っているかな? 消えていたって良い。また付けてあげるから。何だったら私の歯型だけでタトゥーを入れたって良い。夏服の半袖から覗くタトゥーだらけの貴方の腕を見た生活指導の先生には「彼女にされてしまった」と伝えて欲しい。貴方を校則で拘束するのではなく、〝私〟で拘束したい。タトゥーの柄は私の名前以外にはあり得ない。

「お疲れ様」

 だって、他に最適な刺青いれずみを思い付かない。昇龍なんかより、天使の羽なんかより、髑髏どくろの骸骨なんかより、それの方が良いはず

「ねぇ」

 ......けれど、その髑髏が私の頭蓋骨なら、まだゆるせるかな。でも、ぱっと見じゃ、それが私の頭蓋骨だと瞬時には判別出来る術も無い。そうだ。じゃあ、私、自分の頭蓋骨に印として......

「大丈夫?」

 いつの間にか、私の目の前に彼の胸部が近付いていて、肩に触れられた。

 どうやら廊下の真ん中で〝少しだけ〟ぼーっとしていたみたい。

 私より頭一つ分身長の高い彼が少し屈み、私の伏せていた視線の先にその顔を持ってくる。前髪の下から窺うように彼の瞳を見てみると、それはどうやら少し潤んでいるようで、私に何かをうているようにも見えてしまう。まるで雨の中捨てられた犬のような顔をして。

「この前は、ごめんね、怒ってる......?」

 彼はそう謝った。

「怒ってないよ」

 怒る筈なんか無い事だ。

 事の成り行きの所為せいでも、私が持ち込んでしまったアルカホールに、意外とそれに弱い貴方が呑まれてしまった所為でも、貴方の両親が家にこびり付かせたマイルドセブンの匂いの所為でも、貴方と私しか居ない部屋に差し込んだ西日があでやかだった所為でも。

 どれの所為にしても良い。

 私は嬉しかったから。

 私の所為に、して欲しいくらい。

「本当......?」

 彼は潤んだ涙膜の上下に根付く黒い芝を瞬かせて、私に訊く。

 ここで「嘘」と私が言ったら彼は泣いてしまうのかな? そんな気持ち悪い嗜虐心しぎゃくしんが胸をくすぐる頃、さっさと堕ちたいと思うけれど。

「うん」

 まだ、その時じゃないと自分に言い聞かせ、抑えつける。

「一緒に、帰ってくれる?」

「うん、良いよ」


 校門を出て暫くすると、どちらが言うでもなく、自然、いつの間にか私の左手と彼の右手は絡んでいた。

 彼の顔を見上げると、彼は車道を走る車に目を逸らしていた。

 繋いでいる手を、ぐっ、と握ってみる。すると彼はそれに気付いて此方こちらを見るしかなくなる。して、彼は此方こちらを向いてはくれたものの、私にしっかり視線を合わせてはくれないようだ。

 まぁ、〝あんな事〟があった後では、そうそう目を合わせる事も面映おもはゆいのだろうか?

 確かに、その次の日の素面しらふの朝は私の方も、中々彼の顔を見る事が出来なかった。目を泳がせて私達を包んでいた敷布に視線を落とすと、初めはのりを利かせて潔白を主張するようだったシーツは私達の体動を描いたかのような皺の付き方をしていたし、汚れてもいた。

 倒錯的に彼を想う私が、もし夢の中で彼の上になっていたらと思うと少し、恥ずかしさを覚えた。けれど実際には何がどうなったのか、その記憶も酔いと共に抜けてしまい、伽藍堂になった私達の周りには事後の残骸のみが、〝何か〟があったという事を訴えていた。

 ほとほと、私自身の自家撞着じかどうちゃくには呆れてしまう。手に入れるためには手段を選ばないような思考回路をしている癖に、いざ手に入れてしまうと自身の手が可笑おかしな汚れ方をしている事に気が付いて自己嫌悪感に苛まれるか、羞恥を感じたりするのだ。

 見た所、彼にも一種の自己嫌悪と言うか、罪悪感のようなものが顔から湧いているよう見受けるけれど、その厭悪えんおはきっと私の感じているそれとは発生機序が多分違っていて、きっと清麗で青臭くて、健全そうだ。愛おしさすら感じてしまう。

「どう、したの?」

 私のあばくような視線に正面から受け続ける事に堪え兼ねて、彼は横目でそう私に訊く。

「何だか、よそよそしい感じだね」

 彼がそうなっている原因も理由も余す事無く理解しているにも関わらず、私はそれをほじくり返すように、確かに呟く。

 貴方が無意識で〝狡い〟のだから、ちょっとくらい私が悪意を持って〝狡い〟事をしても、この世の善と悪の総量は均衡している筈。神様が巫山戯ふざけて男と女を創ったんだから、私はそれに乗っかる。それだけの事。

「......っ」

 どうやら、相当堪えているらしい。

 その嫌悪感をはらの中で消化する早さは、人と人との間、私と彼との間でも少し違うようで、私の方が少し早いらしい。アセトアルデヒドの分解能に個人差があるのと似たようなものだろう。そして、それらの分解能が上の人の方が、下の人を高みから虐めてあげられる。虐めの場は内装が薄暗いホテルかもしれないし、将又はたまた夕暮れの通学路かもしれない。

「どうしてそんな態度を、取るのかな?」

「......ごめん、そうしたくてしてる訳じゃ、ないんだ」

 彼には、精神的にそういう気質がある。......そういう所も、また加虐したい気持ちをくすぐられるのだけれど。

 彼のそんな性格を表すような、男子にしては節くれだっているでも無い、筋の浮く指の間の隙間を埋めるように、私の指を交互に絡ませる。

 すると、自分の手掌に走行する血管の脈動が激しいのに気が付く。まるであの時みたいにお互いの心臓を近づけ合ったような事をしている気がして、余計に拍動が早まる気がした。

 これを今、彼に悟られたくはないな。

 自分と同じように彼の掌からも感じる生命の躍動に名残惜しさを感じながらも自分の手を離し、腕を組むために体勢を変える。まるで上肢の性交とでも言うように前腕をこすり合わせると、遂に彼は斜め向こうに顔を伏せてしまった。

 彼が私に苛まれている所を見るのが、これ程にたのしいとは思いもしなかった。そのまま死ぬまで私に苦しんでもらって、私と貴方の墓標も重ねたい。


 階段を降りて入った地下鉄構内の温い風は、そのまま私のただれた思考をとがめているようにも感じたけれど、そんなまとわりつくように頬を撫でられては唯々ただただ劣情を促して助けるだけだ。

 澱んだ空気の中、ゆっくり侵入するようにやって来た電車を見て、去年の夏を、私は思い出す。


────


 去年の夏、私はある精神病にかかった。

 発症の原因は、高校二年になって彼と学級が離れてしまった所為だと思う。学年が上がってすぐ私は、〝クラスが離れている間に、彼に見捨てられてしまうのではないか〟という強迫観念に囚われるようになった。時期に手が痺れ、震え、食べたものは味がしなくなるというような心身症まで現れ始めた。

 遂に見兼ねた彼が、二年の夏休みに入った頃に私の手を引いて心療内科に連れて行ってくれる事になった。家から距離があり、そこに向かう為に使っていた電車も確かこの路線だった。強いストレスに曝され続けて記憶があやふやになってしまった為、その頃の出来事は詳細には覚えていない。

 夏だったのに異様に寒かった事と、電車の扉が閉まるとパニックになりそうになっていた事だけは覚えている。

 そんな中、電車だろうと診察室だろうと彼は嫌な顔一つせず私の手を握ってくれていた。

 そんな彼に私は「捨てないで、捨てないで」と何回彼に迫っただろうか。「寒いから抱き締めて」と何回彼の腕に爪を立てただろうか。

 ────手を引かれて心療内科の帰り道に見た夕陽は、とても綺麗だった。

 独りが怖くて自分の部屋に何回彼を引き止めただろうか。

 当時、私は私で必死で、彼に迫ろうとしてそうした訳ではないのだが、事実、客観的に俯瞰して見ると、それは迫ってしまっていた。

 彼の心根が私に心地良すぎて、それに何回甘えたか分からなくなった頃。

 彼の頬にあかみが差すのを、見るようになった。


 その日も例によって私の部屋で二人、寝台に腰掛けて肩を預け合い、私は彼の隣ではすっかり平静になってうとうとしていた。その所為で途端、私は彼の肩に乗せていた頭を肩から外してくずおれ、体勢を崩しそうになってしまった。

 彼が素早く支えてくれたのは良いのだけれど。

 咄嗟に支えた所為で、彼の手は私のあまり良くない部分に触れてしまっていた。

 ────確かその時も、窓からは嫣然えんぜんとした西日が私達を包んでいたように思う。

 慌てて謝り、顔を背ける彼の不意を突いて私は彼を後方に押した。男子にしてはいささか薄い彼の肩を倒すのはそこまで難しい事ではなかった。それか、もしかしたら彼に抵抗する気が無かっただけかもしれない、なんて。

 後頭部をシーツにくっ付けられた彼は目をぐっとつむり、頬は紅くなってすっかり上気していたようだった。口から零す吐息に至ってはその時点で既に湿しめを含んでしまっていた。

「目、開けて欲しいな」

 私がそう甘えると、彼はおもむろに瞼を開いてゆっくり此方こちらに向いた。瞳孔は瑞々しく濡れて今にでも泣き出してしまいそうになるのではないか、そう思わせる程の秘めやかな光沢を宿して私を誘った。

 彼が震わせる睫毛の間に、嵌め込まれた宝石。潰すと何色の液体が溢れ出るのか、知りたい衝動に駆られる。けれど、そうするまでも無かった。

 私が何かするでもなく、その眼から透明の汁が滲み出て、彼の頬を伝い、後ろ髪に消えていった。

 彼も彼で、遂に衝動に堪え兼ねたようで。

「ごめんね」

 そう謝った後、私に触れた。

 私と彼の間で初めての〝事故〟を起こした。

 私が起こさせた。


 事が終わったその直後、彼は取り乱してしまい只管ひたすら私に謝っていた。

 どうやら自分では、私が弱っている所につけ込んでよこしまな気持ちをぶつけてしまったと後悔しているらしい。

 正直言うと、その頃の私といえば彼の献身的とも言える奉仕のお陰でほとんど精神病による症状は寛解していた。なので自身で正常な判断が下せない程弱っていた、という訳ではないし、仮にそのような状態の上でもてあそばれたとしても相手が彼なら気持ちが良い。全くの無問題だった。

 問題は彼が多少内罰ないばつの過ぎる人間で、そういう本能に抱き合わせられた感情を〝邪〟とする精神性だった。

 失意に暮れる彼の耳元で、私は彼にとって免罪符となる都合の良い言葉を囁いた。「ありがとう」「嬉しかった」「嫌じゃないよ」「またしようね」

 けれどそれに対する彼の返答は「ごめんね」のみ。

 どうやら随分、彼の性質と性交渉の相性は悪いようで。

 そういう経緯もあって、彼は行為に対して大分苦手意識があるようだった。


────


 そしてつい先日、そういう行為に彼を慣らしてあげようと私はストロング系缶酎ハイを携えて彼の家におもむいた。彼に飲ませて呑まし、御膳立てをしたのは良いのだが、私も私でアルカホールの摂取によってどのような快楽が訪れるか気になって羽目を外してしまったのだ。

 そうして、気不味い素面の朝に繋がる訳である。


 列車が私達の後ろで再出発しようとする駆動音に紛れて、彼はやっと口を開いてくれた。

「この間の夜......、僕、君に酷い事したかな......? ごめん、本当に、覚えていなくて」

「ううん、良いの。私も覚えていないんだ。それに元々、私の所為みたいなものでしょ?」

「いや......」

「......でも、確かに私が起きた時は、君が上になっていたよ、そう言えば」

 勿論、これは嘘である。

「っ......、じゃあ......」

 彼は前髪に手をかざして憂いた。

 私と歩調をずらそうとしたのか少し足早になり、改札口へ向かおうとする。だがそれに合わせて私もしつこく彼の横に付く。

「別に、しても良いのに」

 そう私が煽ると、また彼は押し黙って俯いてしまう。

 全く、去年の夏に初めの〝事故〟を起こした時から彼は全然変わらないようだった。私が上になった時には相変わらず閉眼して処女のような(男の人を処女のような、なんて言うのも可笑しいけれど敢えてそう言う)反応をするし、終わった後は必ず私に謝罪する。

 罪があるとするなら貴方ではなくて、男性をそういう風に創った神様が悪いのにね。そして可哀想な貴方を弄ぶ私には一体どのくらいの罪があるだろう? 本当に謝るべきは私なのに、貴方に「ごめんね」を言われる度に気持ち良くなってしまう。

「ねぇ」

「ん、なに?」

「また、君の家に行っても良い?」

 そして、また貴方に「ごめんね」を言わせようとしている私が居る。


 貴方が二律背反の中で揺れる顔を見るのは、堪らなく愉しい。そしてその原因が私だなんて、その事実だけで──してしまう。

 私の中にも二律が在ったけれどもう今はすっかり〝犯〟に一律だ。そうなると後は振り切れるだけで良いからとても楽。

 もう、貴方の部屋も、貴方の寝台も、貴方も犯した。私の物。

「やっぱり、止めようよ」

「じゃあ、お酒を買って来てあげる」

「そういう事じゃ、ない」

 窓から差し込む西日はあの日と同じだった。同じ、という事はそのままあの日あった事を想起させる。その陽光を見るだけで、私は古典的条件付けのように感興し、彼に迫る。

 二人だけの世界を創る為に扉と窓を閉め切ると、おそらく私達から発してしまっているえた豊饒ほうじょうの匂いが部屋を満たしてしまった。自分の視界が良くない色に染まるのを感じる。

 どうやらアルカホールが出る幕では無いらしい。

 まるで押し入れで見つからないように大麻を育てるようなやましさまで感じてきてしまった。これから私達という大麻がベットのシーツでジョイントとして巻かれ、よくない煙を出してしまうだろう。

「じゃあ、どういう事か教えて? 私は別に、お酒なんか要らない。君は何が欲しいの?」

「......」

 私は彼の胸を押して、彼をベッドに転がした。

 そろそろ〝事故〟は〝事件〟になりつつある。私の〝故意〟は今の所、私から彼への一方通行のように見えなくもない。そろそろ片側一車線くらいにはなって欲しい。

 彼から私への想いは、ちゃんと彼の口から言わせたい。堕ちて欲しい。

 彼のスクールシャツのボタンに、手を掛ける。すると私の手首を掴んで彼はそれを制した。

めようよ」


「......ごめんね」


 ────今までの意趣返しとでも言うように、私は彼にそう言ってみせた。

 彼が目を見開き、息を飲む音が聴こえたような気がした。

 本当に、自身の性格のねじれ方と、彼の性格の掌握の仕方は自分でも拍手して賞賛を贈りたいくらいだ。

 私は彼に甘えはしてきたものの、今までに謝罪などした事が無い。そんな私がする、今まで温めてきた初めての、この状況での「ごめんね」の謝罪。彼の今までの懺悔の仕方をなぞる事によって、彼自身が抱いていた葛藤や罪悪感が、私にもあるかのように、彼に錯覚させる。

 ────本当はそんなもの、ある訳も無いのに。

 私の策に落ちた彼は、私に堕ちるしかない。

 遂に彼は瞼を閉じて、私に身を委ねた。

 私は彼をほだし切るまで、彼が私の〝故意〟の深さに堕ちるまで、〝事故〟を起こし続ける。


────


 三年次の一学期を終えて、夏休み。

 ────彼は、かつての私と似たような精神病に罹った。

計算通りだった。

 彼の「ごめんね」の声音が更なる悲痛を帯びてくる頃、私は彼に素っ気ない態度を取る事にした。

 すると自罰的な彼は勝手に〝自分は大きな過ちを犯して、私を傷付けた〟と自身を責める事になる。

 そして、彼が壊れそうになる所で、私が手を差し伸べる。彼は私の手に涙を流しながら頬擦りする。私を求める。

 求められ応じた私は、事後、また素っ気ない態度を取る。

 その負、いや、正の循環を用いて私は完全に彼を掌握した。

 このまま彼を壊したい衝動に駆られるが、壊れると死んでしまうのか、気持ち良くなるのかが解らない。それが解らないから、生かさず殺さずの距離感で、彼を苛み続けた。

 放棄された子犬のような彼を冷たい態度であしらうのは良心が痛んだが、とうの昔に痛みは快楽だった。

 一方通行の矢印が、百八十度反対になった頃。

 今度は私が彼を心療内科へ連れて行ってあげる事にした。

 手に震えが起これば手を押さえてあげた。

 寒いと言えば体を抱き締めてあげた。

 彼を、私に縋らせるよう仕向けた。

 なのに。


 彼が「ごめんね」と言う回数より、「ありがとう」と言う回数が増えた。

 彼の「ありがとう」は私の心の底に埋もれていた良心の欠片を掘り起こす事になった。


────


「迷惑を掛けるね。......今日も連れて来てくれて、ありがとう」

「......去年は、君がこうして私の手を引いて、連れて来てくれたよね」

 帰路の途中で見る夕焼けは、青臭い私達を見て共感性羞恥でも抱いたかのような色をしていた。

「......うん、まさか、立場が逆になってしまうなんて、思ってもいなかったよ」

「私達、やっぱり似た者同士なんだよ」

「そうみたいだね」

 彼はそう言うと屈託無く、はは、と笑った。

 ────それを見て、予想だにしていなかった死角から胸を射抜かれた感覚がする。

 図らずも、私が利用しようとした精神病によって真逆に方向転換した想いの矢印は、彼自身の想いをフィルターを掛けずに私に告げさせる事を、助ける結果となったらしい。それは私が予想する所とは違う働きかけを彼に促し、私にも促した。

 そして彼の心身症が寛解する程に、彼の「ありがとう」はその純度を上げる。最近は彼のそういう笑顔を見る事が多くなってきた。彼が私に喘ぐ顔と、その笑顔を天秤に掛けてみる。

 ────すると、どうやら私は悪人にはなりきれないようだった。

 その笑顔がどうにも真っ直ぐな所為で、私は毒気を抜かれ、彼に絆される感覚が止まない。私が慎重に積み上げた積み木のような悪意は、彼の「ありがとう」だけで溶かされてしまう。

 わかった事がある。

 彼の「ありがとう」を受け取る度に、夕陽の光が〝あでやか〟から〝あえか〟なるものに感じるようになってきた事。

 私は「ごめんね」で彼を堕とそうとしたのに、彼は今度、「ありがとう」で無自覚に私を堕とそうとしてくる。そこに〝故意〟があるかどうかは違ったけれど、似たような事をしている点で、私達は確かに似た者同士だった。

 けれど、彼の方が何をしても一枚上手になってしまうらしい。

 やはり彼は〝狡い〟。打算が無いのに〝狡い〟。私のように計算高い訳ではないのに〝狡い〟事が〝狡い〟。

 何故だろう?

 こっちは綿密に彼を堕とす謀略を練っていたのに、そんな私の企みを健全な純粋さのみで頓挫させる。そんな彼の心根の清廉さに当てられて、最近私は、自分が壊そうとしていたものの正体を知って後悔させられてしまう。

 今では彼の気を引く為に事も、とても恥ずかしい事のように思えた。

「......また私が可笑おかしくなったら、その時も君が私の手を引いて、連れて来てね」

「勿論。......でもしばらくは、君に手を引いてもらうの良いかなって、思っているよ」

 彼の言葉選びが(彼は選んでいるつもりは無いのだろうが)態々わざわざ私の胸の内の、柔らかい所をえぐるものだから悔しい気もするけれど、諦めて彼に負けるのも、気持ちが良いのかもしれない。

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故意のベクトル M.S. @MS018492

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