【私だけのヒーロー】ヒーローとは

ながる

唯一の

 突然記者に囲まれて、一斉にフラッシュを浴びせられる。

 そんなことが人生で一度でもあるなんて思ったことはない。

 結婚指輪を買った帰りだった。店を出た瞬間の眩しさの洪水。すぐに彼の背に隠され、脱いだ背広を頭から被された。

 ふわりと香った彼の匂いに、出会った時を思い出した、なんて言ったら、暢気だと笑われるんだろうか。

 この背広はアルマーニではないけれど。


「離婚から日が経ってませんが、彼とはいつから?」「結納金はいくらもらったんですか?」「騙されていると思いませんか?」「元奥様に一言」「売名行為だと言われていますが」「最後の悪あがきですか」


 悪意があるのかないのか、容赦のない言葉のつぶてに身の縮まる思いがする。彼の背は怯むことなく、顔は正面を向いたまま私を抱き寄せ、カメラとマイクを掻き分けるようにして進む。


「彼女は一般人だ。それ以上言うと侮辱罪で訴えるぞ」

「解ってて誘惑したんだろ?」


 背中の方から嗤う声に振り向きそうになる彼の袖を掴む。

 背広を目元まで引き下げるようにして口元だけ笑ってやった。


「ご想像にお任せします」


 一瞬だけ静かになった隙をつくように、彼の開けてくれた車の後部座席に乗り込む。すぐに何か質問が追いかけてきたけれど、もう個別には聞き取れなかった。

 保険金目当ての若い女にすがりつく浅ましい男。そんな噂もぽつぽつ出てきている。

 車を発進させて、彼がため息をつく。


「黙ってて良かったのに。どこから洩れたんでしょうねぇ……」

「別に。その通りだし」


 次の週刊誌の発売が楽しみだ。買わないけど。


 ※


 すでに籍を入れて、確かに私の旦那様になった人は、世間一般に裏切り者と呼ばれている。

 妻を裏切り、会社を裏切り、全てが露見して地の底に落ちた。と。

 彼は言い訳はしなかった。ただひとつ、彼に残された彼の母親の残した家と庭を守ることだけが贖罪のようで。


「いいんですよ。私は慣れてますから」

「良くありません。慣れないでくださいと、何度言ったら」


 疲れ切った彼は、あれこれを諦めてきた。諦めさせるものか。私を庭師へ導いた彼の才能を埋もれさせはしない。今日の背中はさながら悪役ヴィランというところだけど。


「あんなこと言ったら、本当に好き勝手に書かれますよ?」


 ほぅ、とつく溜息は悩ましげで、優しい。


「みんなすぐに忘れますよ。皐月さんもよく言ってるじゃないですか」

「そうですが……」


 式も挙げず、親戚の顔合わせもない。紙切れ一枚役所に提出して、家で指輪の交換をした。

 彼は私のことを一般人だというけれど、仕事を辞め、私の苗字になった彼も、もう一般人のはずだ。退職金でこの家と庭の相続税を賄って、それを結納金の代わりとして私は受け取っている。もう彼の財産は少しの現金を残して何一つない。

 これから勉強して庭師となってもらい、二人で会社を興すのが約束だ。

 実は、高校生の頃の私は彼をずっと庭師だと勘違いしていた。この家の庭を整える作業を手伝った夏休み、私は彼に恋をして、あっさりと失恋した。

 もう今は同じ立場なのだから、彼だけが矢面に立つことはない。


「『元御曹司から何もかもを奪い取った稀代の悪女』って、まあまあ素敵な肩書きですよ」


 そうやって楽しみにしていた週刊誌の見出しと一面は、某有名アイドルの隠し子騒動で占められていた。私たちの記事も載ってはいたけど、ほんの小さく。落ちぶれた御曹司の話などでは、売れないということだろうか。

 ネットニュースもアイドルの話ばかりが賑わいを見せている。

 にこにこと皐月さんが後ろから私のパソコンを覗き込んだ。


「良かったですね。揚羽あげはさんに妙な肩書きがつかなくて」


 あれだけ心配していたのに、発売日が近くなっても妙に落ち着いていた。まさかと確認してみる。


「……何かしましたか?」

「なにか? 少し、手持ちの情報をリークしたくらいですよ。あんまりこういうのは好きじゃないんですが、もう私の使えるものはそのくらいしかありませんから。大丈夫。このくらいじゃ彼は潰れないですよ。ちゃんと流す情報は選んでます」


 待って。こういうことができるのなら、どうして自分の時はやらなかったの!

 いや。解ってる。彼は優しいのだ。会社を守るため、家族を守るため、そういう名目で全てを引き受けてきた。いくつかはこうして捌いていたのだろう。彼が優秀であればあるほど、周囲は恐ろしくなったのだ。いつ自分に牙が向くのかと。

 私は体の向きを変えて、彼に抱きついた。


「ありがとう」

「いいえ。家族を守るのは当然のことです」


 抱き締め返される彼の腕の中は優しく温かい。これを手放すなど、なんてもったいないことをするのだろう。年の差だとか、スキャンダルだとか、私にはどうでもいい。全てを失くしてもなお、私を守ろうとしてくれる彼はかけがえのない人。


「皐月さんは、私のヒーローですね」

「何を言うのです?」


 彼は腕を緩めて、キョトンと私を見下ろした。


「ヒーローはあなたですよ。ただの庭師を愛してくれて、どん底から救い出してくれた、ただひとりの人です」

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