7章 牛がもたらすもの
第1話 食べられない理由
世界には、そして日本には様々な宗教がある。その規模も様々だ。大規模なものからこじんまりとしたものまで、数え切れないほど存在する。
常連である須藤さんも、とある宗教の信者だった。
「私、宗教上の理由で牛肉が食べられないんですよ」
そう言いながら、
牛肉を食べないのなら、かのインド発祥の宗教か? と思ったが、どうやらそうでは無い様だった。
「いえいえ。日本由来の新興宗教です。牛の
「あら、その様な宗教団体があるんですね」
「はい。私の意思で入ったんじゃ無くて、私が生まれた時にはすでに両親が信仰していたので、自動的に入信させられたって感じなんです。なのでもう、訳も分からぬまま、ですよ」
「ふふ。でも宗教に入られているご家庭だと、そう言うことも多いんでしょうねぇ」
「はい。両親がその宗教に入った理由が、なかなか子宝に恵まれなかったからで。子どもが欲しくて、でもできなくて。そこで病院に行かず宗教に頼ってしまうところが、まぁなんともうちの両親らしいと言えばそうなんですけどもね。思い込みが強いって言うか。確かに当時は不妊治療があまりポピュラーでは無かったかも知れないですが。男性の不妊が知られたのも結構最近ですしね」
須藤さんはそう言って苦笑する。今は煮物屋さんの近くのワンルームマンションでひとり暮らしとのことだが、ご両親と同居されている時には、そんなエピソードもあったのだろう。
「で、そのタイミングで無事に懐妊、私が産まれたと言うわけです。両親は驚いて大喜びで。そりゃあ信じようって気にもなりますよね」
「そうですねぇ。言い方は乱暴ですけど、信じる者は救われるとも言いますし、その宗教に入られたことで、「これで大丈夫」って言う安心とか余裕とか、そう言うのも出来たのかも知れないですねぇ」
「そうですね。ストレスとかそういうのも妊娠するのに良く無いって聞きますしね。余裕って言うのは確かにそうかも知れません。でもお陰で、私にもちゃんと信仰しろってうるさくて。あの、まぁ、思い込み強めの両親なんで」
須藤さんは言って、また苦笑い。
と言っても、その宗教は特別なお経などがある訳では無かった。毎日朝晩、ご神体である木造の牛の像に祈るだけなのだそうだ。それは確かにハードルが低い。
「両親はその像を大事に大事にして、毎日柔らかい布でぴっかぴかに磨いてます。私がひとり暮らしを始める時に新しいのを持たされて、神様入れてもらったから、毎日お祈りして綺麗にしなさいって。私はさすがに磨くまではしていないですけど。ほこりを落とすぐらいで」
「ご両親にとっては願いを叶えてくれた神様ですから、そうしたくなるんでしょうねぇ」
「そうなんでしょうね。まーだからかよそへの勧誘も熱心でしたよ。私はそれが嫌でたまらなかったんですけど、両親にとっては善意なんで、何を言っても治まらなくて。なので就職を機に家を出ちゃいました。学生のうちは家を出るなって言われていたので。今でもやっているのかなぁ。誰かに迷惑掛けてなきゃ良いけど」
須藤さんはそう言ってうなだれる。
「なので私、生まれてこのかた牛肉を食べたことが無いんですよ。ラーメンも牛骨スープはアウトです。市販のブイヨンとかコンソメも、牛の成分が入っているのでだめなんです。お店のものなら入っていないことが多いのでいただけるんですけど」
「そう思うと、確かに食べられるものは結構制限されてしまうかも知れませんね」
「もう家を出ちゃってますし、私自身そう熱心な信者でも無いので、思い切って食べちゃおうかなって思ったこともあるんですけど、なんだか両親に後ろめたくて。結局牛肉は食べないままで」
「では牛肉を食べようと思ったら、脱会しないといけないんですね」
「そうですね。でもまだそこまで考えていなくて。牛肉を食べたことが無いので、その味を知らないですしね。友だちには「人生の半分以上損してる」って言われるんですけど、そもそも食べたことが無いのでなんとも。それにそこまで困っていませんしね。牛肉だけなので、そんな神経質にならなくても避けられることも多いので。それに脱会するとなると、まずは親を説得しないといけないので、それが大変です。そこまで抜けたいと思っている訳じゃ無いので、説得材料も無いんです」
「ではうちに来られる時は、表のお品書きをよくご確認くださいね。うちは食材としてでしか牛肉を使っていませんので」
「はい、気を付けます。ここのご飯とても美味しいので、また来たいです。自炊苦手なので、近くにこういうお店があると本当に助かります」
須藤さんはにっこりと頷いて、また鶏肉を口に運んだ。
ある日の朝、起き出して来た
ダイニングテーブルに着き、コーヒーを手に新聞をぱらりとめくる。すると中面にあった小さな記事が目に付いた。
新興宗教団体、警察の家宅捜査入る
ざっと読んでいると、どうやら違法薬物が関わっている様だ。物騒だなぁと思いながら読み進めて行くと、「牛の像を崇拝」とあり、「あれ?」と引っ掛かる。
確か須藤さんが入信している宗教も、牛の偶像をご本尊としていたはずだ。
新聞にはその団体の名称が出ていたが、須藤さんの入信先は聞いていないので、そこなのかどうかは判らない。さて。
「なぁ、姉ちゃん」
「ん?」
「これ」
千隼は正面でカフェオレを飲む佳鳴に新聞をずらし、くだんの記事を指差した。佳鳴はそれに目を通すと、「牛」と呟いた。
「須藤さんを思い出すね。彼女が入信されているところなのかな」
「どうなんだろうな。牛を神聖視してる宗教が多いのか少ないのか判らないし。いや、少ないのか?」
「普段関心が無いから判らないよね。もし須藤さんのところなら、次に来られた時に話に出るかも」
「そうだな。ま、今俺らが気を揉んでも仕方が無いか」
「そうそう。私たちは今日もご飯食べて、仕込みして、お店を開けるだけだよ」
「じゃ、飯作るか」
「私は洗濯からかな」
佳鳴と千隼は、空になったカップを手に立ち上がった。
きのこたっぷりのクリームパスタと、玉ねぎとレタスのコンソメスープでランチを済ませた佳鳴と千隼は、公設市場で買い出しだ。
肉屋を覗くと、今日は牛すじ肉が特売だった。これはじっくりと煮込んだら、美味しいメインが出来るだろう。だが。
「……もしあれが須藤さんのところだったら、今日牛肉を使うのはためらっちゃう」
「俺もだ。あー、でもこうなると食いたくなるよなぁ。柔らかく煮たやつ旨いもんなぁ」
「じゃあ明日のお昼用に今日仕込んでおく? 1晩置いたら味も良く沁みるよ」
「そうだな、そうするか」
そうしてふたり分の牛すじ肉を買い込み、ふたりは買い物を続けて行った。
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