18、エピローグ

俺はそれまで乗っていた自分の愛車を売りに出した。高校を卒業してすぐに免許を取得し、初めて買った俺の大事な相棒を手放すことはとても悲しかった。しかしそれ以上に俺の心を掴んだのは親父が遺していった、いや、俺にくれた最後のプレゼントである黄色い車だった。


親父と再会し、和解をしたあの日から俺は黄色い車に好んで乗るようになった。幼い頃、俺はこの車に憧れていた。大人になったら運転してみたい、と。しかし実際、この車は俺にとって親父とのあの忌まわしい記憶を思い出させるいわく付きの車になってしまった。だから俺は親父が死んでからも乗ることは決してなかった。しかし、今は違う。黄色い車に乗ることが俺の一番の楽しみになった。それは間違いなく、俺の記憶の中に親父と再会したあの時の思い出が加わったからだ。


「あっ! お母さん、待ってるよ!」


助手席の窓から病院のエントランスに目を向けた翠が、酷く驚いた様子で声を上げた。翠の視線の先に目をやる。そこには車椅子に乗り、満面の笑顔を浮かべる母親の姿があった。女性の看護師が隣に付き添い、優しい笑顔を浮かべてこちらを見ていた。


「おいおい……俺達が病室に迎えにいくんじゃなかったのかよ……」


「お母さん、きっと早く昴に会いたくて待ち切れなかったんだろうね」


俺が親父と和解したあの日から、母親の容体は少しづつ回復して行った。まだ油断は許さない状況だが主治医によれば「奇跡的な回復」らしい。完全に退院することはできないものの、一時的な退院を許された母親を俺と翠は迎えに来たのだ。当初は俺と翠が病室まで行く予定だったが、母親はエントランスまでやってきた。自らの力で。車を横づけし、慌てて母親の元へ駆け寄る。


「母さん! 何で自分から来たんだよ⁈」


「昴、ごめんなさいね。暫くベッドにいたんだけど、居ても立っても居られなくて」


母親は苦笑いを浮かべ、申し訳なさそうに言った。が、前方に目を向けると、すぐに言葉を続けた。


「懐かしいわね……その黄色い車。遠く離れた所からも一目で分かるわ。お父さんの車だって……もう二度と乗ることはないと思っていたわ」


「お母さん、まだ泣いちゃ駄目ですよ! 泣くなら車に乗ってからですよ!」


黄色い車を目の当たりにして目を潤ませる母親の姿に、翠が優しく微笑みながら声を掛けた。母親はにこりと笑うと、そうねと呟き、車椅子から立ち上がろうとした。酷く驚いた俺と翠、そして看護師が一斉に母親の身体を支えようと手を伸ばした。しかし、母親はその手を優しく払いのけると両腕にありったけの力を込め、ゆっくりと立ち上がった。


自分自身の足でしっかりと硬いアスファルトを踏み締め、前に前に進む。その母親の視線の先には親父が愛してやまなかったあの黄色い車がある。看護師は酷く驚いた様子で立ち尽くしていた。信じられない、といった表情だ。翠は大きな目に涙を一杯浮かべながらも、嬉しそうに微笑みながら母親を見守っていた。


俺が親父と再会した日、久しぶりにじっくりと言葉を交わした母親は衰弱し切っており、俺と翠が黄色い車に乗って来たことを知っても「自分はもう二度と乗ることはできない」と言って悲しい表情を浮かべていた。


しかし今、一度は諦めたその黄色い車に母親は乗ろうとしている。親父に対する母親の強い思いがそうさせていることを目の当たりにした俺は自身の胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。母親のこの姿を親父が見たらどんなに嬉しいだろう。俺は後部座席のドアを開けた。が、翠が突然声を上げた。


「後部座席には私が座ります!」


「……どうして?」


母親は酷く驚いた様子で翠の顔を怪訝そうに見つめた。翠は優しく微笑むと、助手席のドアを開けた。


「お母さんはどうぞ助手席に座ってください」


「翠ちゃん……」


俺は咄嗟に翠の顔を見た。小声で「ありがとう」と声を掛けると彼女は何も言わずに、にこりと笑った。俺は母親がシートへ座るのを手伝った。ぎこちない手つきでシートベルトを締めた母親は堪え切れずに大粒の涙を零しながら、嬉しそうに言った。


「お父さん、昴、ただいま帰りましたよ」


二度と気持ちを伝えられない親父の分まで、俺は心を込めて言葉を返した。


「おかえり、母さん」


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