17、ポプラの樹 その3

「……その、あの大喧嘩の時は、すまなかった……。親父が最低最悪のクソ親父だってことは知っていたが、まさか俺の将来の金にまで手を付けるとは思ってもみなかったから、つい頭に血が上って……てめぇのしたことは今でも納得はいかないが、俺の為にと思ってくれていたことは感謝する」


俺はそう言うと一旦、言葉を切った。親父は何も言わずに、俺の次の言葉を待っていた。


「……俺はずっと苦しかった。正直、親父が死んだ時ホッとした。でも、あんなに酷い喧嘩を吹っかけて一言も口を聞かないままでいいのかよって自問自答して……俺も親父と同じだったよ。その苦しさをずっとここに仕舞い込んできたんだ」


俺は自身の胸をどん、と力強く叩いた。


「親父が黄色い車を使って俺に何かを伝えようとしていると翠が言った時、最初は信じなかったし鬱陶しいと思った。だが、愉と再会してから俺の中で何かが変わり始めたんだ。そして、母さんに会ってお互いの気持ちを打ち明けることができて……俺はそこでようやく親父とも向き合う決心ができた。だから、その機会をくれた親父には感謝してる」


俺は初めて親父の目を正面から真っすぐに見つめた。親父は少し驚いていたが、すぐに笑顔を浮かべた。その目からは今までの憎たらしさや人を上から見下すような雰囲気は消え去っていた。それは俺の気持ちを素直に受け止めようとする父親の目そのものだった。


「昴、お前の気持ちは伝わった。ありがとうな」


親父が自身の手を俺の目の前に差し出した。俺はその手を取り、ぎゅっと握り締めた。


「ああ」


それは父親と息子の、男と男の、固い握手だった。俺と親父はお互いの目をじっと見つめた。すると、ハッとした親父が思い出したように口を開いた。


「ああそうだ、一番肝心なことを言い忘れる所だった。オレの愛車のことだ。あいつはお前に託す。オレにとって一番大事なのは家族だが、あいつはオレにとってその次に大事なものだ。だから誰かに金を積まれようが土下座されて頼まれようが、オレはあいつを譲ったり売りに出すことは絶対にしなかった。出来れば天国へ持って行きたい。だが、残念ながらそれはできない。これは大事な一人息子のお前だからこそ頼むんだ。分かるか?」


「……」


確かに親父はあの愛車を絶対に手放そうとはしなかった。故障や不具合を起こしてどれだけ修理費がかかろうともいつも万全な状態に保っていたし、日本に数台しかない貴重な車だということで譲ってくれと高い金額を提示してくる者も結構いたが、親父はその全てを突っぱねた。それだけあの黄色い車は親父にとってなくてはならない物だった。親父は自分の分身のように愛してやまないそんな車を俺に託すと言ってくれたのだ。俺はすぐに返事ができずに言葉に詰まってしまった。死ぬほど嬉しかったからだ。


「お前は幼い頃、自分も大きくなったらマニュアル車を運転してみたい。かっこよくギアを入れ替えてドライブするんだと言っていたな。あいつならお前のその夢を叶えてやれる。そう、これはオレからの最後の誕生日プレゼントだ」


「親父……」


親父の相棒であるあの黄色い車は、幼い頃の俺にとって一番の憧れだった。自分が運転できたらどんなに良いだろう、と乗る度にいつも妄想を膨らませていた。親父はそんな俺の気持ちを分かってくれていたのだ。思わず自身の目の奥が熱くなるのが分かった。


「ありがとう。親父の大切な相棒、大事にするからな」


俺の言葉に親父は嬉しそうに笑った。傍らでは翠が大粒の涙を零しながら俺達の様子をじっと見守っていた。


「母さんによろしく伝えてくれ」


「ああ、分かった」


親父はそう一言だけ口にして去って行った。母親はきっと俺が言わなくても親父の本当の気持ちを理解しているだろう。親父の想いは既に届いている筈だ。暫くすると、女性店員が先ほどと同じようにミニテーブルを持って俺達の席へとやってきた。そして、ふたつのカップに熱々のミルクとコーヒーを注ぎ始めた。俺と翠は酷く驚いて咄嗟に顔を見合わせた。


「えっ? 私達、注文してませんけど……?」


「これはマスターからのサービスです」


「……っ⁈」


女性店員はにこりと笑って言った。驚いて咄嗟にカウンターに目をやる。すると、親父は満面の笑顔を浮かべながらひらりと片手を上げたのだった。マスターの姿を借りた親父があれだけ俺に向かって力説しているにも関わらず、女性店員が親父のことを怪しむ様子は全くなかった。もしかしたらこの店のマスターは日頃から客との会話を楽しんでいるのかもしれない。


俺は目の前に差し出されたカップの中を見つめた。そして、それを手に取ると、ゆっくりと口に運んだ。ふわっととしたミルクの甘みの後に、ほんのりとしたコーヒーの苦みが口の中に残った。それはとても優しくて温かかった。幼い頃「お前も早く大人の味が分かるといいな」と言いながら、親父が飲ませてくれたことを思い出した。静かにカップを置く。立ち上る湯気からはカフェオレの苦みと甘みが混ざり合った香りが漂っている、それは俺に、在りし日の親父の優しさと温かさを微かに感じさせる懐かしい香りだった。


「このカフェオレも、サンドイッチも、ケーキも……全部美味しいね」


「ああ、そうだな」


そっと呟いた翠に言葉を返す。彼女の目は微かに潤んでいた。先程、俺と親父のやりとりを目の当たりにした時は大粒の涙を零していた。その後一旦落ち着いたのだが、今の彼女の様子を見ると、どうやら親父がサービスしてくれたこのカフェオレに何かを感じたようだ。


「昴、実はね」


飲んでいたカフェオレのカップをそっと戻すと、翠が突然改まった様子で口を開いた。


「なんだ?」


俺はサンドイッチを口に入れようとしていたが、その手を一旦止めた。


「私、今日行く予定だったレストランで昴の誕生日を祝ってあげる予定だったの。でも、黄色い車が案内を始めた時、これは絶対に意味があるって思った。今日は昴の誕生日だったし、黄色い車はお父さんの愛車だし……最初の内はもちろん確信を持てなかったけど、案内に従った方が昴の為になるって思ったんだ」


翠はそう言うと一旦言葉を切った。そして、カフェオレを一口だけ飲むと、再び口を開いた。


「昴は自分の誕生日なんて意味がないって思ってるかもしれないけど、私にとっては特別なの。それはたぶん、昴のお父さんとお母さんも同じだと思う。本音を言うと、昴の20才の誕生日を私が祝ってあげたかった。でも、昴とお父さんが仲直りできるなら私はどんなことでもしようって思ったの。私はこれから先もずっと昴の誕生日を祝ってあげられる。だけど、お父さんにはもう二度とそれができないから……」


そう言って彼女は自身の目頭をハンカチで押さえた。翠の気持ちが痛い程伝わってきた。自分が祝う筈だった恋人の誕生日。彼女はそれを恋人の死んだ父親に譲ったのだ。もうこの世にはいない人に。俺と親父のことを心から心配し、想ってくれる翠のことを俺は愛おしく思った。心から感謝した。


「翠、ありがとう。その……」


俺は今の素直な気持ちを翠に伝えたいと思った。親父や母親に対してもそうだったが、俺は翠に対しても感情を表に出すことが驚く程下手だった。翠とは付き合ってから二年目だが、彼女に対して素直な言葉を口にしたのは恐らく数える程しかない。(その内の一回はプロポーズの言葉だ)俺にとってそれだけ今は不慣れな状況だった。


「お前の気持ち、とても嬉しい。今日一日、お前が傍にいてくれて本当に心強かった」


「昴……」


「俺はこれから自分に正直に、素直に生きようと思う。そして、母さんとお前を全力で守る。ずっと大事にする」


そう言って翠の大きな瞳を真っすぐにじっと見つめた。その目はまた潤んでいた。彼女は嬉しそうに微笑むとそっと口を開いた。


「……ありがとう。私も昴とお母さんのこと、ずっと支えていくから。何かあったらいつでも言って」


「ああ」


カップの前に置かれている彼女の細い手をぎゅっと握った。その手はとても優しく温かかった。


俺は、ふとカウンターに目をやった。しかし、そこにはもう親父の……いや、マスターの姿は見当たらなかった。俺は自身の胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。俺は親父がサービスしてくれたカフェオレをゆっくりと飲みながら、今日あった出来事、そしてこの店で起きたことを思い返していた。


今朝、古い車庫を開けて親父の車と対面した時、そいつはもう二度と戻ることはない親父のことを待っているのだと俺は思った。しかし、それは違っていた。黄色い車が待っていたのは親父ではない。俺だったのだ。あの時既に黄色い車には親父の魂が宿っていたのだ。今の俺にはそれが痛いほど分かる。親父は愛してやまない自身の車に自分の気持ちを全て託したのだ。


親父は自分の性格をきちんと理解していた。俺は今まで、親父は自分で自分が何をやっているのか分かっていないだけだと思っていた。自分の正義を振りかざして、周りに反対されようが自分がやりたいことをやって自分勝手に人生を謳歌して、そして勝手に一人で死んでいった。そう思っていた。


しかし、それは間違っていたのだ。人は、自分の性格など簡単に直せない。自分が自分のことを一番分かっているとは言うが、誰にだって自分を見失ってしまうことはある。俺だってそうだ。何故なら、俺にもそんな親父の血が流れているからだ。親父の言う通り、あの大喧嘩がそれを物語っている。


車に戻った俺はカーナビの電源を入れた。どうなるかは分かっていた。だが、心のどこかでまだ親父が俺を思い出の場所へ連れて行ってくれるんじゃないかと期待していたのだ。しかし、カーナビが起動することはもう二度となかった。


「お父さん、今度こそ旅立ったんだね……」


「ああ、そうだな……」


目の奥が熱くなるのを感じ、咄嗟に首を横に振った。


「さて、家に帰るか」


一息ついてハンドルを握る。


「うん、そうだね」


俺はエンジンキーを回して、発車させた。

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