16、ポプラの樹 その2

そこまで一気に語った親父は一旦言葉を切った。


「……」


俺は酷く驚いた。親父がこんなにも素直に自分の気持ちを伝えたことがこれまであっただろうか。親父の気持ちは嬉しかったが、当然すぐには受け入れられる筈がなかった。ずっと憎んできた親父が目の前で「お前を愛している」と口にしたら、誰だって間違いなく戸惑うだろう。


一方、翠は素直に感動しているのか、大きな目を微かに潤ませて、親父の顔をじっと見つめていた。親父に向かって何か言おうとしたが、驚く程何も言葉が出ない。親父は暫く俺の反応を伺っていた。が、一向に口を開かない俺を待つことを諦めた様子で、何も言わずに席を立ちカウンターへと戻っていった。


「昴、お父さんに何か言わなくていいの?」


翠が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。


「……突然あんなこと言われても何て返していいのかわかんねぇだろ」


「そうだけど……」


妙に居た堪れない気持ちになり、俺はコーヒーを一口飲んだ。それはとっくに冷めていて、いかに親父の独白が長く濃いものだったかを物語っていた。すると、親父が再び席へと戻って来た。そして、両手に持っていた大きなトレーを俺の目の前に置いた。


「昴、20才の誕生日、おめでとう」


「うわあ! 昴、良かったね!」


それはイチゴのホールケーキだった。真っ白い滑らかな生クリームでコーティングされたスポンジの上には真っ赤なイチゴがぐるっと円になって乗せられており、真ん中にはチョコレートのプレートが飾られている。翠が驚きと歓喜の声を上げた。


が、その時俺は初めて思い出した。今日が自身の誕生日だということを。自分の誕生日を忘れる奴がいるのかと思うかもしれない。しかし、俺にとってのそれは特別なものでもなく何気なく過ぎ去っていく日常と何ら変わらないものだった。この喫茶店で家族三人、誕生日会を開いていた時はもちろんそんなことを思ったことはなかった。しかし、12才を最後に誕生日を祝うことがなくなってしまってからは俺の中で、誕生日は特別なもの、という認識がなくなってしまったようだった。


今思うとそれはもしかしたら寂しさから来るものだったのかもしれない。そんな中で突然、目の前に誕生日ケーキが現れたことに俺は面食らってしまった。そして何より、久しく口にしていなかったその物体を前にし、思わず苦い笑いを浮かべてしまった。


「……親父、俺、甘い物苦手なんだけど」


「そんなことはとっくに知っている。だが、お前は昔、イチゴのショートケーキが好きだっただろ。毎年の誕生日も決まってこのホールケーキを用意してもらってたんだ」


「いや、そうだけど……しかもこのチョコプレートのメッセージ……『すばるくん、おたんじょうびおめでとう』って……子供かよ」


「なんだ? オレのプレゼントが食えないってのか?」


俺は目の前に置かれたその大きな物体を暫くの間、眺めていた。そんな俺のことをすぐ近くで親父が食い入るように見つめている。オレが贈ったんだから食え、と言っているかのようでもの凄い圧力を感じる。


しかし、俺が大人になってからはお互い殆ど口も聞かず、誕生日会すらやろうとしなかった親父が俺の為に用意してくれたのかと思うと、俺は胸がじんわりと温かくなるような気がした。頭に浮かんだ言葉を口に出すか一瞬、躊躇った。が、俺は思い切ってそれを口に出した。


「……あ、ありがとう」


恥ずかしさで親父の方へ視線を向けることができなかった。なので、俺の言葉に対して親父がどんな反応をしたのかは分からなかった。親父はカウンターから取り皿を持ってくるとケーキを切り分けたが、それは均等に切れずに歪な形になってしまった。が、そんなことはお構いなし。俺と翠の前に堂々とその皿を置いた。


「……おい、もう少し綺麗に切れないのかよ」


「うるせぇな。黙って食え」


舌打ちをしながらクレームを付ける俺に親父は負けじと反論した。そんな俺達の様子を黙って見ていた翠がクスクスと笑った。俺は手にフォークを持ったまま、暫くの間考えた。イチゴのショートケーキを最後に食べたのは一体いつだろうか。もしかしたら親父の言う通り12才が最後かもしれない。俺は、ふうと一息つくとフォークでケーキの端を切り、おそるおそる口に運んだ。


「……懐かしい味だ」


ふんわりと柔らかく、甘くて優しい味。それは俺が幼い頃に食べた味そのものだった。湧き水公園のソフトクリームと同じように、こいつはずっと変わらずにここにあったのだ。家族三人、仲睦まじく毎日楽しく過ごしていたあの頃……親父も母親も俺も、心の底から笑い合っていた。そんな光景を思い出した俺は、自身の口元がふっと緩むのが分かった。


「このケーキ、お父さんが作ったんですか?」


翠の問いに親父はぶんぶんと首を横に振った。


「そんな訳ないだろ。オレは料理はしない主義だ」


「おい、料理はしないんじゃなくて、できないだけだろ。さっき母さんが言ってたぞ」


俺の言葉に翠が堪え切れずにプッと噴き出した。将来の娘の前で侮辱された親父はムッとした顔をして反論した。


「黙れ。料理は母さんの仕事だからだ」


これ以上何か言っても無駄だと判断した俺は黙っていた。大人しくなった息子に安堵したのか親父が続けた。


「店の誕生日ケーキ予約表にこっそり書いておいたのさ。そうすりゃ、マスターが勝手に作ってくれるからな。そこにはチョコプレートに入れるメッセージ記入欄もあるからお前の名前を書いておいた」


それであの幼稚なチョコプレートが乗っていたのか……と、俺は思ったが口には出さなかった。すると突然、親父が改まったように真剣な表情を浮かべて口を開いた。


「昴、オレはできることならこの先も……21才の誕生日、22才の誕生日、と祝ってやりたい。お前がどういう大人に成長するのか見届けてやりたい。だが、オレのその願いはもう二度と叶わない」


「親父……」


俺はケーキを食べる手を一旦止めた。先程までの憎たらしく得意気な笑みはどこへやら、親父は真剣な面持ちで言葉を続けた。


「だからオレが今から言うことを聞いて欲しい。出来ることなら母さんにも会って直接思いを伝えたい。だが、オレにはもう時間がない。さっきも言ったが、お前が成長することが母さんの為にもなるんだ。それを忘れるな。オレの代わりに母さんを大事にしてやってくれ。それと、結婚をしたら家庭を大事にしろ。オレのように家族をお前の身勝手で振り回したりするな」


「おい、誰が親父みたいになるかよ」


俺は思わず反論した。俺が自分の身勝手で家族を振り回す? 冗談じゃない。しかし親父は俺の反論を軽く受け流すと、真剣な顔で言った。それはまるで、幼い子供に言い聞かせる父親のようだった。


「いいか、昴。お前にはオレと同じ血が流れている。それはお前がよく分かっていると思う。だからこそ、オレはお前に忠告するんだ。『俺は親父のようには決してならない』分かっていても、いつお前が暴走するかは分からん。現にあの大喧嘩の時だって、お前はオレの鼻を砕いて歯を吹っ飛ばしたんだからな」


俺は何となくばつが悪くなり、視線を逸らした。が、親父は構わずに更に続けた。


「お前とオレは似ているんだ。それは愉くんにも言われただろう? だからこそ、お前は自分の言動に注意しろ。何があっても嫁さんと将来生まれてくるかもしれない自分の子供を傷つけるようなことはするな」


俺は何も言わずに頷いた。親父はふと壁時計に目をやると、慌てた様子で口を開いた。


「オレはもうこの身体から出なきゃならない。これでお前達とはお別れだ」


「お、親父……っ!」


咄嗟に俺は親父の腕を掴んだ。その途端、俺の脳裏に咄嗟に記憶が蘇った。大喧嘩をした時に掴んだ腕。あの時と同じだ。しかし、ひとつだけ違うことがある。あの時の俺は憎しみをぶつけようとしていた。が、今の俺は親父に歩み寄ろうとしているのだ。


「ま、待ってくれ! 俺はまだ親父に何も伝えてねぇ! さっきから聞いてりゃ自分のことばかりペラペラ喋りやがって! 少しは俺にも喋らせろよ!」


「なんだ? 言いたいことがあるなら言ってみろ」


俺は何とか自分の思いを言葉にしようとした。これまで憎んできた親父に本当の気持ちを伝えなければならない。この機会を逃したら、もう二度と伝えられない。自身の心臓が早鐘のように鳴っているのが分かった。


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