14、ポプラの樹 その1
母親の病院を出て、車に戻った俺と翠はすぐにカーナビの電源を入れた。
「もう夜だし、そろそろこの旅も終わりかなぁ。ねぇ、お父さん?」
翠は画面に浮かび上がったメーカーのロゴを眺めながら楽しそうに呟いた。しかし、母親と翠の前で大泣きしてしまった俺は恥ずかしさで一杯だった。翠の顔をまともに見ることが出来ない。が、翠は全く気にも留めていない様子だ。何事もなかったかのように、これまでと同じように俺に接してくれる。それだけではない。俺が大泣きしている最中、翠はずっと俺の肩を抱いて慰め続けてくれていたのだ。俺は今日一日、翠が一緒に居てくれて本当に良かったと心の底から思った。
「……翠」
「ん? なに?」
「その……さっきは色々とありがとうな」
口にしたはいいが、やはり恥ずかしさが勝って翠の顔を直視できなかった。しかし、翠は俺の気持ちをきちんと汲み取ってくれた。返事の代わりに、にこりと笑みを向けてくれたのだった。
カーナビの指示で辿り着いたのは市内にある古い喫茶店だった。カフェ、ではなく、喫茶店である。木造でこじんまりとしているが、外観は西洋風でとても上品な造りだ。建物上部に掲げられている看板は年季が入っており、「ポプラの樹」と書かれているレトロな書体も相まってパッと見ただけで昭和に作られた喫茶店であることが分かった。
ショーウインドウには大きな花が花瓶に生けられている。今はただの装飾用スペースになっているが、もしかしたらかつてはこの店の商品のサンプルがズラリと並べられていたのかもしれない。小さな専用駐車場に車を停め、俺は溜息を吐いた。すると、俺の気持ちを察したのか翠がすぐに口を開いた。
「昴がこういう店を苦手なのは知ってるけど、ここまで来たら行くのは当然でしょ」
「ああ、もちろん分かっている。ちょっと心の準備が必要なだけだ。まぁ色んな意味で、だが……」
「よく分かってるじゃん! ほら、早く行こう。凄くレトロで雰囲気が良さそう」
翠はそう言ってとても楽しそうに笑った。明らかに心を躍らせている様子だ。俺は彼女とは正反対で正直、気乗りがしない。俺はこういう古い建物や物が苦手なのだ。マニュアル車は好きだが、それはあくまでも技術的な意味で、だ。翠のように、こういうレトロな物に興味を示す輩も多いが、古い物よりも新しい物が好きな俺にとっては「レトロ」のどこに魅力を感じるのか理解できない。
しかし、親父は間違いなくこの店でも何かを伝えようとしているのだ。俺はふう、と一息つくと意を決してエンジンを切り、キーを外した。翠は嬉しそうに頷くと、早速シートベルトを取り外し、ドアを開けた。そして颯爽と店に向かって行った。俺は急いで彼女の後に続いた。入り口の扉を開けると、カランコロン、という心地よい音が店内に響いた。扉に付いている鐘の音のようだ。その音と共に店の奥の方から愛想の良い女性の声が聞こえて来た。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ!」
店の奥に位置しているカウンターから中年の女性が顔を覗かせ、にこりと微笑みを浮かべてこちらを見ていた。翠は彼女に向かって軽く会釈をすると、手前にある二人掛けのテーブルに腰を掛けた。立ち尽くしている俺を見上げて、自分の向かい側を指している。早く座れ、ということなのだろう。俺は何も言わずにその椅子に腰を下ろした。先ほどの女性が、汗をたっぷりとかいた水とおしぼりを持って来て、注文が決まったら呼んでくれ、と言った。翠はメニュー表を開き、真剣な眼差しでじっと見つめている。
「どれにするんだ?」
「うーん……ちょっとお腹空かない?」
「……そういやソフトクリーム以外何も食ってないな」
確かに俺と翠は今朝から動き回っていたが、必死だった所為か食事を取るのをすっかり忘れていた。そうか、親父にまた振り回されてるんだな、俺は。そう思いながら、俺はふっと笑みを浮かべた。
「何笑ってるの?」
「いや、何でもない」
翠は不思議そうに俺の顔をじっと見つめた。
「サンドイッチでも食うか。あと、俺はコーヒーを」
「うん、私もサンドイッチにしよう」
メニュー表を眺めながら、翠はカウンターの奥にいる女性店員に声を掛けた。
「サンドイッチをふたつとコーヒーとカフェオレをお願いします。あっ、どちらもホットで」
「かしこまりました」
女性店員は手書きで注文を書きつけると、にこりと微笑み、またカウンター内へと戻って行った。今、殆どのカフェやレストランでの注文は専用の端末が使われている。この店では未だに紙で注文を取っているのがいかにも昭和の名残という感じで俺は古臭さに思わず顔をしかめてしまった。一方、翠はこの店の雰囲気が気に入ったのか、興味深そうに店内を見回している。
「このお店、凄く古そうだよね。いつからあるんだろう?」
「……どうせ昭和辺りからあるんじゃねぇの」
「ちょっと。そんな言い方ないでしょ」
ぶっきらぼうな返答をした俺に翠はあからさまに不機嫌な表情を浮かべる。その表情を見て、俺は少しばつが悪くなった。仕方なく、彼女にならって店内を見回してみる。レジの隣には四人掛けのテーブルが二つ。片方の席には老夫婦が座っており、静かにコーヒーを飲んでいた。その向かい側には二人掛けのテーブルが二つ。今、俺達が座っている席だ。それらは全て店内の雰囲気に合わせているのかアンティーク物だ。
奥は廊下になっており、それに沿って縦並びにカウンターがある。忙しなく働いている女性店員のいるそのカウンターの後ろには大きなガラス張りの棚があり、様々な種類のカップやソーサー、グラスなどが並べられている。近くにある業務用の冷蔵庫にはコーヒーゼリー、サンドイッチ、数種類のケーキ、それからラベルの付いていないドレッシングが二本入っており、「自家製ドレッシング販売中!」という手書きのポップが冷蔵庫の表側に貼ってあった。
「そういや、親父はこういう古い店が好きだったな……」
「そっか。じゃあ、ここはやっぱりお父さんの思い出の場所なんだね?」
翠の言葉に何かを言いかけたその時だった。自分の脳裏に何かの映像がほんの一瞬、ふっと浮んだ。
「……まただ」
「どうしたの?」
今朝、陽光峠展望台で起こったあの現象と全く同じだった。俺はその映像をもう一度思い出そうとする。が、今度は何も浮ばない。
「いや、今、何か思い出した気が……」
「お待たせいたしました」
コーヒーとサンドイッチを持ってきた女性店員によって俺の思考は遮られてしまった。仕方なく、コーヒーを口に入れる。甘い物が嫌いなため、砂糖もクリームも入れずブラックのまま飲む。
「失礼いたします」
続いて、女性店員がどこからかミニテーブルを持ってきて、その上に空のカップとソーサーを置いた。
「……?」
翠が注文したのはカフェオレの筈だ。俺と翠は顔を見合わせた。女性店員はカウンターに戻ると両手に小さなポットを持って再びやってきた。そして、その二つのポットを自身の顔の高さまで持ち上げると、空のカップに向かって同時に中身を注ぎ入れた。
驚き、よく見てみると、高い位置から同時に注がれるそれはミルクとコーヒーであることが分かった。その瞬間、俺の脳裏に再び映像がふっと浮ぶ。今度はとても鮮明だった。それはまさに、空のカップに注がれる熱々のミルクとコーヒーの映像だった。俺はハッとして思わず声を上げた。
「俺、ここに来たことがある」
「えっ⁈」
翠が驚きの声を上げた。俺の顔を見て、目を丸くしている。女性店員は嬉しそうに微笑むと、カップとソーサーを翠の前に置き、去って行った。熱いミルクとコーヒーが同時に注ぎ込まれたカップの中は程よく泡立っていた。
「あれは……俺がまだ四歳ぐらいの時だったか、親父が、ここのカフェオレが母さんのお気に入りなんだと言っていた。自分は飲まないが、パフォーマンスが最高だから気に入っていると言っていた。今、思い出した」
翠の目の前に置かれたカフェオレを俺はじっと見つめ、呟いた。翠に話し掛けるというより、自分に言い聞かせているような感覚だった。
「そっか。お父さんの思い出だけじゃなくて、家族の思い出の場所なんだね」
翠が嬉しそうに感嘆の声を上げた。ふと、カウンターの方に目をやると店の奥から一人の中年男性が姿を現した。女性店員と同じくエプロンをしている。この店のマスターかもしれない。俺は何となく気になり、その男の姿を目で追った。すると、くるりとこちらを振り返ったかと思うと、突然その男は俺と翠の座席へ向かって来た。
「……?」
突然、背後から目の前に現れた男に翠は少し驚いて、飲もうとしていたカフェオレのカップをソーサーに一旦、戻した。男は俺の顔をじっと見つめると、にやり、と笑って口を開いた。
「昴、久しぶりだな」
その言葉、にやりとした不敵な笑み。俺はその瞬間、目の前にいるこの男が何者なのかを悟った。
「……まさか、親父⁈」
「一発でオレだと分かるとは大したもんじゃないか」
外見はどこからどう見ても店のマスターだ。しかし、俺はその中身が自分の親父だということを一瞬で見抜いた。もしもカーナビが案内する一番最初の目的地がこの店だったとしたら、俺はきっとすぐには受け入れられなかっただろう。
「親父、こんな所で何してんだよ⁈」
「何してるも何もお前を待ってたに決まってんだろ。今日一日、オレがお前達に楽しい旅をプレゼントしてやったんだ。分かってんだろ?」
「……っ」
得意気な笑みを浮べる親父の顔を目の当たりにし、自身の胸の中で再び憎しみや嫌悪といった感情が湧き上がるのが分かった。やはり間違いない。こいつは正真正銘、俺の大嫌いなクソ親父だ。
「最初は、こうしてお前達の目の前に出るつもりはなかった。お前と顔を突き合わせて話をするのが嫌だったからな。だからオレの愛車を使ったんだ。だがな、さっきのお前と母さんのやりとりを見ていたら、オレも直接お前と話をしたくなったのさ。だからこうして出てきてやったんだ」
「……親父、気持ちはありがたいが、相変わらずの上から目線だな。ふん、死んでも性格は変わってねぇんだな」
「何言ってやがる。お前の方こそクソ生意気な口聞きやがって。高校の時から全然変わってないだろ。少しは成長してんのか? おい?」
腹が立った俺は舌打ちをして、親父の顔をきっと睨みつけた。目の前で繰り広げられる俺と親父のやり取りを翠は黙って見つめていた。その顔には明らかに動揺、困惑、といった表情が広がっている。暫くの間、呆然としていたが、やがて全てを把握して受け入れたのか、満面の笑みを浮かべると声を上げた。
「昴! 凄いじゃん!」
「あ、ああ……」
翠はこの展開に素直に感動しているようだった。しかし、正直なところ俺は酷く戸惑っていた。今日一日起こった数々の出来事のおかげで親父に対しての気持ちに自分の中で変化があったのは事実だ。
しかし、直接親父と顔を合わせた今、我ながら素直じゃない態度しか取れない上に親父は相変わらず人の神経を逆撫でしてくる。どうしていいのか分からない。俺は発するべき言葉が見つからずに、ただ黙っていることしか出来なかった。すると、翠が不意に座席から立ち上がり、親父に向かって一礼すると、満面の笑顔を浮かべて言った。
「初めまして、翠と言います。昴くんと結婚の約束をしています。お会いできてとても嬉しいです!」
「君のことは昴を見ていたから知っている。いつも昴を支えてくれてありがとう」
「い、いいえ! そんな……」
翠は驚いたのか焦った様子で両手をぶんぶんと横に振った。しかし、ハッと我に返ると、今度は真剣な眼差しで口を開いた。
「こうして直接来られたということは、昴くんに伝えたいことがあるんですよね?」
親父はすぐに返事をせず、翠ではなく何故か俺の方を見た。そして俺の顔をじっと見つめたまま、言葉を返した。
「ああ、もちろんだ。まぁ、殆どはさっき母さんがお前に話してくれたが……」
親父は向かい側の四人席のテーブルから空いている椅子をひとつだけ持って来た。そして、それに腰を掛けると語り始めたのだった。
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