13、母の病院 その2

一気に語り続けた所為か母親は再び胸が苦しくなった様子で一旦、ふうと大きく息を吐いた。窓の外はすっかり暗くなっており、遠くの山々は漆黒の闇に包まれていた。その上には綺麗な満月がぽっかりと浮かんでいる。先ほどまでいなかった同室の三人はいつの間にか自身のベッドに戻っていて、思い思いに過ごしていた。誰かが電気を付けてくれたようで病室の中は明るくなっていた。


翠は困惑した表情を浮かべ、心配そうに俺のことを見つめていた。俺はたった今、母親から聞いた話を繰り返し思い返していた。どれもこれも信じられない話ばかりでそれらが自分の心に浸透するまでに酷く時間がかかった。


親父が勝手に手を付けた俺の金の使い道が競馬だと?

一獲千金を狙った?

俺に何かしてやりたかったから?


冗談じゃない。どうして俺は早く気が付かなかったのか。親父が俺の金に手を付けようとしていることに。もっと早くに気が付いていれば……俺の中に沸々と親父に対しての様々な感情が湧いてきた。怒りと悔しさのあまり自身の唇を噛み締めた。握った拳がガタガタと震え出す。俺は次々と湧き起こる自身の感情と葛藤した。今、この場に親父がいたとしたら、俺は間違いなく殴っているだろう。それも一発ではない。何発も。


そんな俺の様子を見兼ねたのか、母親が精一杯自身の身体を起こし、手を伸ばした。そして、ガタガタと震える俺の手を両手で優しく包み込んだ。


「……昴、あなたのお父さんは確かにとんでもないことをしたと思うし、酷い人だったと思う。だけど、これだけは分かって欲しいの。お父さんは間違いなくあなたのことを思っていたのよ」


「……だけど母さん、あいつのやったことは最低最悪な行為だ。俺、やっぱりあのクソ親父のこと、許すことなんてできねぇよ」


俺はそう言って思い切り顔を歪めた。母親は俺の両手をより一層、力を込めて握り締め、強い口調で言った。


「昴、聞いて。お父さんはあなたに気持ちを伝えたいのよ。きっとお父さんはあなたと仲違いをしたまま死んでしまったことを悔やんでいるんだと思うの。私にはよく分かる。だから、わざわざ自分の車を使ってあなたを思い出の場所へ導いているの。本当は生きている内に話がしたかった。だけど、それは叶わないまま逝ってしまった。だから……昴、それはあなたが一番よく分かっている筈、そうでしょう?」


目の奥が熱くなるのが分かった。堪えなければ今にも溢れてしまいそうだった。母親と翠の目の前で涙を流すなど、俺にはできない。涙を零すまいと必死に堪えた。全身がガタガタと震えている。


「昴、ごめんなさいね……本当なら私があなたとお父さんの橋渡しをしなければならないのに……私にはその勇気が出せなくて、ずっとあなたとお父さんを苦しめてしまった。私達家族がこんな風になってしまったのは私の責任だわ」


母親は大粒の涙が零しながら俺の両手を握り締めたまま、自身の思いを必死に言葉にしていた。それはきっと母親がこれまで伝えたくても伝えられなかったことなのだと俺は悟った。違う。そうじゃないんだ。俺は思い切り首を横に振って訴えた。


「違うんだ、母さんの所為じゃない。全部俺が悪いんだ。母さんが病気になったのも俺があんなに酷い大喧嘩を親父に吹っかけたからだ。母さんがどう思うかも考えずに……俺、そのこと、ずっと母さんに伝えたくて……」


俺は一旦、母親の手をそっと振り解くと、今度は自分自身の手で母親の両手を握り締めた。俺の手は依然としてガタガタと震えていた。俺は今にも溢れそうな感情を堪えることが苦しかった。だが、どうしても母親と翠の前で弱い自分を曝け出すことはできなかった。俺は親父が死んだ時、一度も泣かなかった。様々な葛藤があった。苦しかった。


しかし、病に倒れた母親を前にしてそれらを表に出すことを俺自身が許さなかった。だから俺はそれをたった一人で背負い、その全てを胸の奥に仕舞い込んできたのだ。俺は親父とのあの忌まわしい記憶と共に、泣くという行為も封印したのだ。そんな俺の様子をじっと見つめていた母親が静かにゆっくりと口を開いた。それはとても優しく、まるで泣くのを我慢している幼い子供に言い聞かせているようだった。


「我慢なんてしなくていいのよ、昴。泣きたい時は思い切り涙を流せばいいの」


その途端、自身の目から大粒の涙が零れた。


「母さん……本当にすまなかった……っ」


やっとの思いでそう口にした言葉は驚く程震えていた。堰を切ったように涙がとめどなく溢れた。全身から力が抜け、もはや立っていられなくなった俺は床に膝を付き、母親の両手を握り締めたまま、彼女の膝の上まで掛けられている布団に顔を突っ伏して泣いた。ガタガタと震えるその肩を誰かがそっと抱いてくれた。布団に突っ伏している頭を誰かがそっと撫でてくれた。見なくても分かった。翠と母親の手だ。その二つの手はとても優しく温かな手だった。

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