11、母の病院 その1

母親の病院に着いた時、いつの間にか空は黄昏色に染まっていた。西の山の向こうへ今にも太陽は沈もうとしている。それはこの街にもうすぐ夜が訪れることを物語っていた。


外来病棟と入院病棟からなる三階建てのこの病院は、市内で一番大きい総合病院で昔から母親の掛かり付けだった。母親が入院してからというもの数え切れない程ここを訪れた。今日でもう何度目なのだろう。俺にはもう思い出せなかった。


俺と翠はエントランスを抜けると面会受付を済ませた。面会終了ぎりぎりの時間だったが、受付の女性担当者は快く対応してくれ、どうにか間に合った。母親のいる病室はこの病院の最上階だ。エレベーターで上がり、ナースステーションで軽く挨拶を済ませて病室へと向かう。俺は自身の足取りがより一層重くなるのが分かった。


「昴くん、しっかりしたまえ」


浮かない顔をしている俺を見兼ねた翠が、にこりと笑って俺の背中を思い切り叩いた。今朝以来すっかり忘れていたが、翠探偵が復活したようだ。俺を元気づけようと気を遣ってくれているのが分かったが、正直なところ俺の心境はそれどころではなかった。


「いってえな。分かってるって」


そう言って俺はきっと翠を睨みつけた。翠は苦笑いを浮かべながら何も言わずに肩をすくめた。コンコン、と病室の扉を叩き、静かに扉を開ける。母親は一番奥の窓際のベッドに身体を起こし、暮れゆく街並みをぼんやりと眺めていた。病室は個室ではなく四人部屋だが、今、室内にいるのは母親だけだった。気配を感じたのか、咄嗟にこちらへと目を向ける。その顔は驚く程やつれており、まるで生気が感じられなかった。


俺が前回、見舞いに訪れた時も弱っていたが、それとは比べものにならなかった。細く長い黒髪は無造作に肩に掛けられ、布団の上に力無く乗せられた両手は白く細かった。切れ長の瞳は輝きを失い、それはまるで漆黒の闇のように思えた。何も言葉が見つからず、俺はただその場に立ち尽くしていた。


「……」


母親はそんな俺の顔を不思議そうな顔でじっと見つめていた。暫くの間、沈黙が続いたが一向に動かない俺を見て慌てた翠が足早に母親の方へ歩み寄り、微笑みを浮かべて言った。


「お母さん、体調はいかがですか?」


「……翠ちゃん、いつもありがとう。今日はちょっと調子が良いのよ」


母親は翠の細い手を取って笑顔を返していた。笑ってはいるが、それは精一杯の笑顔だということを俺も翠も悟った。母親が翠のことを知ったのは、まだ親父が生きている時だった。


俺が高校生の時だ。バイトが休みの日、翠は他の男女の友人を誘って俺の家へ遊びに来た。その時たまたま母親が家にいたのだ。その頃、俺と翠は付き合ってはおらず友人同士だったが、母親は翠のことを一目で気に入ったようだった。こんなに良い子が自分の息子の嫁になってくれたらいいのにとか、不愛想で不器用な昴がどうしてこんなに良い子と友達になれたのか不思議だ、等々。


翠は俺が見舞いに来られない時、代わって母親を見舞ってくれていた。翠から母親の様子を聞く度に感じたのは、母親は俺よりも翠が見舞う時の方が安心しているのではないかということだ。それもそのはず。いつも俺は適当に病室の扉をノックし、足早に母親のベッドへ向かうと枕元にあるテーブルに無造作にボストンバックを置き、何か欲しい物があるか、と尋ねる。母親はそれに対して一言、何もいらないわ、と返す。俺は、そうか、と呟き足早に病室を出る。こんな息子が見舞いに来て嬉しく思う母親はどこにもいないだろう。


「確かに、今日は顔色も良いですね。安心しました」


翠はそう言ってにこりと笑うと、依然として動けないでいる俺を振り返って、手招きをしながら声を上げた。


「昴、何してるの? 早くこっちにおいでよ」


「……分かってんだよ」


俺は舌打ちをすると、ゆっくりとした足取りで母親のベッドの足元へと歩み寄った。


「……」


しかし、驚く程言葉が出てこない。聞きたいこと、言いたいことは山ほどあるのに。翠は暫くそんな俺の様子を見つめていたが、しびれを切らした様子で口を開いた。


「あの、今日はお母さんにお話したいことがあって来たんです」


「……何かしら?」


先程まで微笑みを浮かべていた翠は一転して真剣な表情を浮かべると、しっかりとした口調で言った。母親が不安そうに眉をひそめている。


「昴とお父さんのことなんです。ほら、昴、ここからは自分でお母さんに伝えなよ」


「あ、ああ……母さん、実はな……」


翠のおかげでようやく言葉を発することができた。俺は少し言葉に詰まりながらも今日一日に起こった出来事を語り始めた。俺と母親がこの二年もの間、一度も触れなかった、いやお互いに意図的に避けて来た話を今、母親に向かって語っている。


緊張と不安で両手に汗が滲むのが分かった。同じく不安を感じているのか、母親は少し苦しそうな顔で自身の片手を胸に当てていた。しかし俺の話に必死に耳を傾けている様子で、それは息子の話を一言も聞き漏らすまいとしているように見えた。先程までの躊躇いはどこへ行ったのか、自分でも驚く程、淀みなく次から次へと言葉が溢れ出て来た。それはまるでこの二年の間に溜め込んでいた思いを全て吐き出すかのような勢いだった。


「それで、母さんにひとつ聞きたいことがあるんだが」


俺はそこまで一気に語るといよいよ本題へ移ろうとした。しかし、翠が慌てて待ったを掛けた。


「ちょ、ちょっと待って、昴。お母さん、びっくりしてるから! 一旦止めよう」


ハッとして母親に目をやると、酷く困惑している様子で眉間に皺を寄せて顔を思い切り歪ませていた。そして、ふうと一息つくと安堵の表情を浮かべて静かに言った。


「翠ちゃん、どうもありがとう。ちょっと混乱してしまって……っ」


その途端、母親が激しく咳き込んだ。翠が驚いて咄嗟に母親の背中を撫でた。ナースコールをするか尋ねたが、母親は首を横に振った。


「だ、大丈夫よ、ありがとう……」


ふう、ともう一度息を整えている。俺はそんな母親の姿を目の当たりにして、自身の胸の中に母親に対する心からの労りの気持ちが微かに湧くのを感じた。成長してからは母親の体調を気遣ったことなど一度もなかった。我ながら酷い息子だと思う。母親が病気を発症したのは俺の責任だということを分かってはいたが、何とかしようという気は起らなかった。


俺と親父の喧嘩を止めようとすると、いつも決まって胸を押さえて苦しそうにする母親のことを俺は鬱陶しいとさえ思っていた。しかし、今はそんな負の感情はどこかへ消え去っていた。この労りの感情をどう言葉にすれば良いのか、俺は戸惑った末に精一杯の言葉を口にした。


「わ、悪いな、母さん……」


真っすぐに母親の顔を見ることができずに視線を逸らしてしまった。しかし、母親はそんな俺に対して優しく言葉を返してくれた。


「いいのよ……ありがとう。それにしても、あの黄色い車の話、本当なの?」


「ああ、本当だ。俺も最初は信じられなかった。だが、あの記憶が蘇った時に、カーナビが母さんのいる病院を指示してきたのを見て、俺と翠は確信したんだ。きっと親父は母さんに話を聞いてこいって言ってるんだと思う」


俺の言葉に母親は押し黙ってしまった。何も言わずにひたすら何かを考えている様子だったが、俺には母親が何を考えているのか全く予想がつかなかった。しかし、やがて気を取り直した様子でそっと口を開いた。


「……それで、聞きたいことって何かしら?」


「親父が俺の学費を使い込んだ時、その他に、家計用の貯金もあっただろ? 親父はそれじゃなくて何で俺の学費に手を付けたか、母さんは知ってるのか?」


「……」


俺の言葉に母親は静かに目を閉じた。何かを思い出そうとしている様子だった。俺は何も言わずに、母親の答えを待った。やがてゆっくりと目を開けた母親は少しづつ当時のことを俺と翠に語り始めたのだった。

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