9、昴の告白 その2

あの大喧嘩を境に俺と親父は口を聞くことはなくなった。家の中で顔を合わせても挨拶すらしなかったし、当然ながら食事も自分の部屋で済ませた。生まれつき呼吸器官や肺の機能がとても弱かった母親は通院を繰り返していたが、あの大喧嘩の後から体調はさらに悪化した。大喧嘩を真の当たりにしたショックと冷え切った息子と夫に挟まれる日々が続き、心労が祟って床に臥せることが多くなってしまった。母親がそんな風になってしまったのは他でもない自分自身の責任だと俺は分かっていたが、どうすることもできなかった。


俺の学費が貯められていたあの銀行口座は解約され、学費を全て失った俺は大学への進学を諦めざるを得なかった。自動車の整備士を目指す為に専門の大学へ進学を考えていたのだが、その夢は断たれた。その代わり、自動車の大手メーカー会社への就職を決めた。学費を稼ぐ必要がなくなったのでバイトを辞めようか迷ったが、小遣いは自分で稼ぎたいと思ったし、何より親父がいる家に居たくなかった。


だから俺はその後もバイトを続けた。近所のファストフード店でひたすらハンバーガーやらポテトやらを作る作業で俺がやりたい仕事とはかけ離れており、何の面白さも感じられなかったが、バイトをしている間だけは無心でいられた。そんな職場が俺にとっては自宅よりも落ち着く場所だった。


親父が死んだのはあの大喧嘩から一か月後のことだった。その日、俺はバイトから帰宅する途中だった。いつもならまだバイトを続けている時間だったが、翌日からの期末テストに備えて上がりの時間を早めにしてもらったのだ。いつものように自転車を漕いで家路に向かう。太陽はとっくのとうに西の空に沈み、空にはぽっかりと初秋の満月が浮んでいた。


仕事や学校を終えた人々が足早に家路へ急ぐ。家の近所のコンビニの前へ差し掛かった時、異様な光景が目に飛び込んで来た。駐車場に止まっている救急車とパトカー、そして道路は警官によって封鎖されている。その周りでは近所から集まって来た野次馬で一杯だった。俺は何となく胸騒ぎを覚え、自転車から降りると、人だかりを掻き分けて現場の見える位置に移動した。


「男の人が車にはねられたんだってさ」


「壁に勢いよくぶつかって、凄い衝撃だった」


人々は口々に自分が見聞きした光景を話し合っていた。俺は人々の視線の先に目をやった。そこには数人の救急隊員に囲まれている横たわった大柄な男の姿、そしてその傍らには見慣れた女がいた。俺はその姿を二度見し、我が目を疑った。小柄で今にも折れてしまいそうな細い身体を震わせて泣き喚いているその女は紛れもなく俺の母親だった。俺は咄嗟に人混みを掻き分けると、封鎖されている中へと飛び込んだ。現場検証をしている警官が驚いて止めようとしたが、俺はその制止を振り払って母親の元へ駆け寄った。


「母さん‼」


母親は咄嗟に顔を上げた。そして、俺の顔を見ると、より一層顔を歪めて泣き叫んだ。


「昴! お父さんが……お父さんが……!」


俺は母親の足元に横たわっている男の姿を見た。言葉には言い表せない程の損傷を受け、変わり果てた姿で静かに横たわるそれは紛れもなく俺の親父だった。ピクリとも動かないその手の先にはまだ冷えたままのビールと数種類のつまみが入ったコンビニの袋が固く握られていた。


後から母親に聞いた話だが、仕事から帰宅した親父は冷蔵庫を開けてビールがないことに気が付いたらしい。その足で近くのコンビニへと走った。ビールと何種類かのつまみを買って店を出た親父はコンビニの前にある信号機付きの横断歩道を渡らずに、普通の道路を横断した。当然ながら信号機も横断歩道もない道路だ。早く帰ってビールを飲みたい。せっかちな親父は家に最も近い道路を渡ったのだ。


そして、よそ見運転をしていた車に跳ねられ、死んだ。80キロを超える速度で突っ込んできたその車を親父が避けられる訳がなかった。親父の身体はぶつかった衝撃で勢いよく吹っ飛ばされ、反対側の家の壁にぶち当たり、地面に落下した。頭と全身を強く打ち、即死だった。


俺は今、自分の目の前に広がっている光景が信じられなかった。母親の泣き喚く声と歪んだ表情、その下に音もなく横たわる無残な親父の姿、淡々と死後の処理をする救急隊員と現場検証を行う警官の姿……現実のものとは思えず、俺はただその場に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


その後はめまぐるしく日々が過ぎ去っていった。あまりに突然過ぎる親父の死にショックを受け、憔悴し切った母親を抱えながら俺は親父の葬儀や後始末に追われた。親父の身勝手により全額を失った俺の学費は、皮肉にも倍の金額で親父の生命保険金や死亡賠償金となって戻ってきた。しかし、就職が決まった後だったし、今更どうすることもできなかった。葬儀が終わった後、遂に母親が倒れてしまった。元々肺が弱かった母親だったが、親父を失ったショックで重い病を発症してしまったのだ。親父の生命保険金や死亡賠償金は母親の多額な治療費に消えて行った。


母親のいなくなった広い家の中、祭壇に安置されている親父の骨壺の前に座り、俺は自問自答した。


昴、お前はこれでせいせいしただろ?

これでもうお前を苦しめるクソ親父はいなくなった。

お前の言動にいちいち文句をつけ、お前の金を勝手に使い込み、母親とお前を散々振り回してきたあのクソ親父はもういないんだ。

なぁ? 楽になったじゃないか。そうだろ?


だが、胸のどこかで引っかかるものがあった。


本当にこれで良かったのか? 


確かに俺の金を使い込んだ親父は許せない。が、親父に大怪我を負わせ、母親の病気を誘発したあの酷い喧嘩を吹っかけたのは誰でもない俺だ。それなのに俺は親父とのわだかまりを放置し、俺と親父の所為で散々苦労をかけた母親には何の言葉も掛けてやれないままだ。


昴、お前はそれでいいのか? 


もう一人の俺が語り掛ける。親父がいなくなってホッとした。だが親父と腹を割って話すことはもう二度とできない。その狭間で俺の気持ちは酷く揺らいでいた。辛く苦しかった。親父が死んでから俺は一度も涙を流さなかった。いや、流せなかったのだ。気丈に振る舞っていたから、とかではない。いっそのこと母親のように悲しんで涙を流すことができたら……その方が楽になれる筈なのに……俺は骨壺の隣に飾られている親父の写真を見つめた。


そこには数枚の写真が写真立てに入れられていた。それらを選んだのは母親だった。葬儀に使用した親父の遺影、そして、俺が幼い頃、家族で遊びに出かけた時に撮った家族写真が二枚。遺影の中の親父はニコリともせずに神妙な面持ちで俺のことをじっと見つめていた。いつ撮ったものかは分からないが、老け具合からすると最近のもののようだ。


一方、家族写真の方は三人とも楽しそうな満面の笑顔を浮かべている。背景に写り込んでいる遊具や売店から考えると、湧き水公園で撮られたものだろう。家族が三人で写っているということはもしかしたら愉の父親か母親が撮ってくれたものかもしれない。自分の目の前にいる幼い俺と母親の肩に手を掛け、嬉しそうに笑う親父。あの頃の俺達家族は毎日が楽しかった。母親はあの頃の楽しかった思い出を、もうこの世にはいない親父、そして殻に閉じこもってしまった俺と共有したかったのかもしれない。


俺は自身の目の奥に熱いものを感じて咄嗟に写真から目を逸らし、首を横に振った。自身の胸の奥から込み上げるその気持ちを受け入れることが怖かった。もう何も考えたくない。その時、俺は誓った。この苦しさを自身の胸の中から永遠に葬り去ることを。



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