8、昴の告白 その1

学校から帰宅した俺はリビングに向かう扉を開けた。するとそこには右往左往している母親の姿があった。酷く青い顔をしてガタガタと唇を震わせている。その手には一冊の預金通帳があった。それは俺の学費貯金の為の通帳だった。


「……母さん、何やってんだ?」


「あぁ昴、帰ったのね」


そう言うと母親は咄嗟に微笑みを浮かべ、持っていた通帳を素早く後ろ手に隠した。が、俺はその行為を見逃さなかった。


「今、何隠した?」


「な、なんでもないのよ」


「俺には見えたぞ。通帳、持ってただろ?」


「本当になんでもないから」


母親は思い切り作った笑みを顔面に張り付けて精一杯明るく振る舞っていたが、無理をしていることは明らかだった。苛立ちを覚え舌打ちをすると、俺は母親が後ろ手に隠した通帳を素早く奪い取った。


「あっ! 昴、駄目、返しなさい!」


母親の動揺を他所に、俺はその通帳を開いた。最新のページを開ける。


「……」


そこには数百万円もあった預金がたった一日で全額引き出されている痕跡があった。俺はそのたった二行を見て全てを悟った。


「……親父だろ」


「ち、違うのよ! これは、私がちょっと引き出しただけで……」


母親の顔面から先ほどまで張り付いていた嘘くさい笑みが一気に消え去った。俺の手から通帳を取り返そうと躍起になっている。しかし俺はその手を軽く交わしながら、自分自身の中に今まで感じていたものとは比べものにならないぐらいの激しい怒りの感情が湧き起こるのを感じた。沸々と込み上げるそれは恐ろしく熱くどす黒いものに感じた。徐々に全身が震えていく。通帳を持つ手がガタガタと小刻みに震え出した。


「ごまかしたって無駄だ。あのクソ親父、俺の金を全部引き出しやがった……!」


「昴! やめて!」


震える手で通帳を握り締め、今にもリビングから飛び出そうとしている俺の身体を、母親は背後から両腕で羽交い締めにして力一杯引き留めようとしていた。しかし、俺よりも小柄な母親は無力だった。俺は母親の両腕を無理やり剥ぎ取ると一目散にリビングを飛び出した。先ほど脱いだばかりの靴を両足に無造作に引っ掛けると、脇に放置されている木刀を掴み(修学旅行の際にふざけて買った土産だったが使わずに放置していた)勢いよく玄関の扉を開けた。母親が泣き喚きながら後を追って来たが、もはや俺を止める術はない。バイトの時間が迫っていたがそれどころではなかった。


玄関を出て家の裏手にある車庫へ向かって全力で走った。仕事から帰宅したばかりの親父がそこにいるのが分かっていたからだ。親父は愛車の車庫入れを済ませ、エンジンを切ったところだったが、ふとバックミラーに目をやると、ハッとした顔で急に自身の動きを止めた。木刀を握り締め、血相を変えてこちらに向かってくる息子の姿を見て何かを悟ったに違いない。俺は運転席の扉を開けようとノブに手を掛けた。が、ビクともしない。親父が中から鍵を閉め、籠城を決め込んだのだ。一気に頭に血が上る。


「おい! てめぇ! ドア開けろ!」


俺は乱暴に窓を叩きながら喚き散らした。そんな俺の様子を窓越しに見る親父の顔も思い切り歪んでおり、何としてもこの扉は開けまいと、息子との戦いに挑んでいる様子だった。喚き叫びながら何度も扉を叩いたが、一向に開ける気配はない。俺は持っていた木刀をぎゅっと握り締めると、運転席の窓目がけて思い切り振り下ろした。しかし、全力で振り下ろしたそれは鈍く重い音を立てて跳ね返ってきた。頑丈に作られた車用の窓ガラスはそう簡単には割れない。


「くそっ!」


俺は思い切り悪態を吐いて何度も自身の最大の力を振り絞り、窓ガラスに向かって全力で木刀を振り下ろした。木刀がガラスに当たる度に中にいる親父の顔が歪んだ。何をしても窓ガラスが割れない事は親父が一番分かっている筈だが、それでも万が一このガラスが割れてしまったら、と恐怖と不安に怯えているような表情だった。


何度打ち付けてもビクともしない窓ガラスに苛立ち舌打ちをすると、俺は持っていた木刀を無造作に放り投げ、素早く助手席側へ回った。その瞬間、車内にいる親父がハッとした表情を浮かべた。しかし、時すでに遅し。親父が助手席の鍵を閉めるよりも先に俺はその扉を開けた。親父は一人で車に乗る時、助手席側の鍵を閉めないことを俺は知っていたのだ。俺は親父の左腕を掴むと思い切り引っ張った。


「このクソ親父! 早く出てこいよ!」


「離せ! 俺は絶対に出ない!」


親父は自身の左腕を掴んでいる俺の手を振り解こうとした。俺はその手により一層力を込め、握り締めた。俺の手の爪が親父の左腕に食い込んで血が滲んだ。親父は顔を真っ赤にして何事か喚きながら必死に俺の手を引き剥がそうと躍起になっていた。


「いってえなこの野郎!」


「てめえが勝手に俺の金に手を付けたからだろ!」


その一瞬だった。動揺したのか俺の手を引き剥がそうとしていた親父の手からふっと力が抜けたのだ。俺はその隙を見逃さなかった。思い切り親父の左腕を引っ張り、自身の両腕で親父の両脇を抱え込むと助手席側から車外へとその筋肉質で大柄な身体を引きずり出すことに成功した。親父は受け身を取れずに尻から地面に落下した。俺はその上から木刀を振り下ろしてやろうかと思った。が、それはさすがにやり過ぎだろうと思い留まった。


すぐに起き上がれずに地面の上でもがいている親父のポロシャツの胸倉を掴むと、俺は思い切りそれを上に引っ張り上げた。俺に掴まれた左腕や引きずり出された時に衝撃を受けた尻の痛み、そして俺への怒りで顔を思い切り歪める親父の顔が目の前にあった。外仕事で日に焼けた浅黒い顔の真ん中で大きな目がぎらぎらと光り、俺を睨みつけている。と、その時だった。背後から金切声が聞こえてきた。


「昴! もうやめなさい!」


咄嗟に振り返ると、母親が大粒の涙を流しながら苦悶の表情を浮かべて立っていた。苦しそうに胸元を抑えている。俺は舌打ちをすると、母親を無視して目の前の親父の顔に向き直った。


「なんで俺の金に手をつけた?」


「……」


親父は俺の問い掛けには答えず、表情を歪めたまま俺の顔をじっと見つめていた。


「あれは俺が大学へ行く為に貯めていた学費だったよな?」


「……」


「……もしや、もう全部使い込んだんじゃないだろうな?」


「……」


両親は共働きだった。母親は病弱だった為、短時間のパート勤務だったが、家計と俺の高校、そして進学する大学への学費を稼ぐ為に必死で働いていた。俺も自身の学費と小遣いの為にバイトをしていた。俺の学費を工面する為、親子三人で働き稼いだ金を少しづつ貯金していたのだ。親父はその大切な貯金を誰にも相談せずに勝手に引き出したのだ。それもとんでもない大金を。だから母親は通帳を目にして動揺していたのだ。母親が何も言わなくても俺には分かった。


「なぁ、さっきから何で黙ってんだ? 何とか言えよ⁈」


俺は声を荒げながら親父の胸倉を思い切り揺さぶった。親父は怒りで顔を真っ赤にしながら歯を思い切り食いしばり目を見開くと、信じられない言葉を口にした。その言葉に俺は思わず我が耳を疑った。


「お前の金は俺の金だ。あの貯金だって俺が殆ど貯めてやったんだ。いつ引き出してどう使おうが俺の勝手だろ」


こいつは一体何を言っているんだ……? どんな思いで俺が毎日バイトをしていると思ってるんだ……?


小遣い稼ぎで軽い気持ちでバイトをして、遊び呆けている同級生達を尻目に俺は自身の将来の為に必死で働いていた。昼間は学校に通い、終わったらバイトへ直行。自身の身体が許す限り働いた。友達は少なかったが、中には誘ってくれる奴もいた。しかし、俺はその全てを断ってひたすら黙々と働いてきたのだ。だが、俺のバイト代だけでは大学への学費などとても工面できない。そう思った母親は病弱な身体に鞭打ち、短時間でも働いて一緒に学費を稼いでくれた。働いている親父も当然、自身の給料から出してくれていた。しかし、俺と母親が汗水垂らして働いた金までも「俺の金だ」とは一体どういうことだ。俺の中で何かがぷつん、と切れる音がした。


「てめぇ……‼」


俺は強く握った拳を親父の顔のど真ん中目がけて思い切り打ち込んだ。その拳は口と鼻を打ち砕いた。大量に血が噴出し、親父は殴られた衝撃で地面に勢いよく倒れ込んだ。背後で母親の悲鳴が聞こえた。それと同時に親父の口の中から白い何かが吹っ飛ぶのが見えた。咄嗟に目をやる。地面に落ちたそれは一本の歯だった。俺は暫くの間、何を考えるともなくその小さな固形物をぼんやり眺めていた。


が、背後で泣き叫ぶ声に気づき、ふっと我に返った。そこには胸元を苦しそうに抑えながら地面に座り込んで泣き喚く母親の姿があった。自身の目の前で我が息子が我が夫の顔面を打ち砕いたという信じられない光景にショックを受けている様子だった。俺は自身の両手を見つめた。片手には握り潰されてぐしゃぐしゃになった通帳。もう片方の手は親父の顔面を殴った衝撃でガタガタと震えており、親父の口や鼻から噴出した大量の血で真っ赤に染まっていた。親父との喧嘩は日常茶飯事だったが、殴る程の喧嘩をしたのはこれが初めてだった。そして、これが最後の親父との喧嘩だった。


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