02.政略
手を握って真剣な眼差しを送ってくるエスカー様の姿を、私は今までに見たことがなかった。
「時間がない、とはどういうことでしょうか」
「多分俺は、兄貴の子どもが生まれてくる前に、婿に行くことになる」
「……え?」
婿、という言葉にドキリとする。
もちろん、今までにそんな話がなかったわけではなかった。しかしエスカー様は今まであの手この手を使って、私以外の女性との結婚から、逃げまわっていたのだ。
「兄貴のところに男児が産まれたら、俺は『王子』ではなくなる。公爵になれるとはいえ、俺の利用価値が下がることに間違いはない」
「『王子』であるうちに、結婚をさせておきたいということですか。それも、婿ということは他国の……もしや、デクシハン王国の姫君の婿に?」
「察しがいいな。当たりだ」
なるほど、と私は頷いた。
デクシハン王国と、このオルターユ王国は、元々折り合いの悪い間柄である。
過去に何度か戦争が起きたこともあるが、最近は武力なしでの解決を模索し合っている。
しかしまだ国民は過去の戦争に囚われていて、負の感情を払拭しきれないのが実情だ。
そこで友好の柱となるのが、王族同士の結婚である。あちらの姫をもらうより、こちらの王子を差し出す方が、条約を結ぶ際に何かしら有利な点があるのだろうということは想像がついた。
逆に言うと、その後は人質をとられているようなものであるから、どちらが良いとは言えないのだが。
「それはご結婚、おめでとうございます」
「カトレア……それは本心で言っているのか?」
エスカー様の苦い顔が、胸に刺さる。
本当は、エスカー様を政治のために利用して欲しくはない。が、そんなことを言っても彼は王子なのだ。
そのような結婚はしない方がいい……だなどとは言えない。国益のための政略結婚は、王族の仕事でもあるのだ。
しかし、心を鬼にしなければと思うほど、胸はナイフで傷つけられたように痛みを放ち始める。
「俺は、誰も知り合いのいない国になど、行きたくない。いや、カトレアがいないところになど、どこにも行きたくはない!」
「……王子」
「カトレア……俺のわがままを聞いて欲しい。これが、最後のわがままだ」
心臓が、痛い。
何を言われるか、わかっているからこそ。
「俺と、結婚してくれ」
聞き慣れた言葉。
比喩ではなく、何千回と言われた言葉。
王子を、言葉もろくに通じぬ国などに行かせたくはない。
一人で誰の知り合いもおらぬデクシハン王国へ、婿に行かなければいけないのだ。
あちらにはあちらのしきたりがあるだろう。自由奔放なエスカー様には、きっと窮屈なはずだ。
そんなの、行かせたくないに決まっているではないか。
私の目から、熱いものがこぼれ落ちた。
私の、王子。
ずっとずっと、二十年間おそばにいたエスカー様が、目の前からいなくなってしまう。
それを思うだけで、私の心は悲鳴を上げ始めた。
「カトレア」
「エスカー、様……」
「結婚、してくれるか?」
しかし私はその言葉に首を振る。
両国を思えば、エスカー様は婿に行くべきだ。それが、国のためなのである。
私の一存で、国益を無に帰すわけには行かない。婿行きを断ることで、一体どう転ぶのかもわからないのだから。
「どうか……どうか、お許しください……っ」
「カトレアは、俺と二度と会えなくなってもいいのか?!」
苦しそうなエスカー様の顔。その頬には一筋の雫が流れ落ち、私は不敬と知りながらもその涙を手で拭う。
「いやです……エスカー様とお会いできなくなるのは、本当にイヤでございます!」
「カトレア、ならば……っ」
「しかし、私にはエスカー様と結婚などという恐れ多いことはできません……この国のためには……」
「俺に、犠牲になれ、と……」
「……っ、申し訳……ございませ……」
いつの間にか私の涙は滝のように流れ落ちていて。
見ると、エスカー様の目からも負けじと涙が滑り落ちる。
「カトレア……俺は、あなたと結婚したかった……」
知っている。三千回も聞いたから。それ以上に聞いていたから。
私は、誰より王子の気持ちを知っているから。
ずっと、王子のそばに居たくて。だからこそ、仕事一筋で頑張ってきた。
誰よりも、エスカー様のために。エスカー様に、幸せになって欲しくて。
おそばで、そのお手伝いをさせて欲しくて。
「ああ、私──」
途切れない涙をそのままに、私は気づいた。気づいて、しまった。
「私は、エスカー様のことが好きだったのね……」
「カト……レア……」
ふっと微笑んで見せると、エスカー様が私を大きく包む。
喉の奥から漏れ出ている王子の声が、悲しくも愛おしい。
「行きたくない、デクシハン王国になど……っ」
「言ってはなりません……っ」
「俺は、このままカトレアを連れて逃げたいっ」
「いけません、エスカー様……!!」
私は王子の胸をぐっと押し出す。
少し距離が開くと、私たちは互いの目を見つめ合った。
「俺に、婿に行けと……あなたが言うのか」
「はい……」
「俺のことを好きな、あなたが……?」
「はい……っ」
「俺より、国を選ぶのか……!」
「申し訳ごさいませ……っん!」
塞がれた唇は、ぶつかったと言えるくらいの衝撃で。
エスカー様の苛立ちと、悲しみと、抱えきれないくらいの大きな愛情が、その唇から伝わってくる。
互いの涙と涙が交じり合う。
やがて、ゆっくりとその唇が離された時。
私たちの涙は、いつのまにか乾いていた。
「……すまない」
「謝るのは、私の方です。エスカー様の望むことを、最後の最後にさせてあげられなかったこと……お許しください」
手が、震えている。本当にこれで良いのかと、心が訴えてくる。
エスカー様を犠牲にしたくないのは本心だ。だからと言って心のままに連れて逃げるなど、私にはできなかった。
「無茶を言ったな、カトレア。悪かった、忘れてくれ。俺は、ちゃんと王族としての役目を果たしてくるよ」
「エスカーさ……」
ジャリと音がして、私はハッとし剣を引き抜く。
少し遠目に、三人の男たちがこちらを睨んでいた。その手には短剣が握られている。明らかにこの国のものではない、青藤色の装束。
「エスカー様、私の陰に!」
「なんだこいつらは……いつの間に……?!」
男たちが、短剣をかざしてこちらに向かって走ってくる。
「下がっていてください!」
「カトレア、気をつけろ!」
ギンッと剣戟の音が響く。一人目の短剣を受け流すと同時にぐるりと回し蹴る。
どしゃんと倒したところに、二人目が飛び込んできた。
頭ギリギリでかわすも、懐に入られる。
「っく!」
突き出された短剣が、私の騎士服を裂いた。
少しの痛みが走ったが、体をよじったので深傷にはなっていない。
私は懐に入り過ぎた男の首を、柄で思いっきり振り下ろした。
ゴギンという嫌な音を立てて男は沈む。
「カトレア!! 危ない!!」
その瞬間、ドンッと音がした。私の体が強く押し出され、大地に転倒する。
「ぐ、あああああああっ」
「エスカー様……?!」
振り向くと、覆い被さっていたのはエスカー様で。
その背中には、短剣が突き刺さっている。
「エスカー様!!」
「う、ぐ、ぐはっ」
エスカー様の衣裳は一瞬で血に染まり。
ぬるりとした生温かい感触が、私の手にまとわりつく。
「っく! 貴様ぁああああ!!」
怒りのまま剣を向けると、男の用は終わったとばかりに去っていった。
私は目の前の状況に愕然とする。
「エスカー様……っ」
「カトレア……無事、か……」
「はい、私は……エスカー様も、大丈夫ですから! 今すぐ、誰かを呼んできます!」
エスカー様の元を立ち去ろうとする私の手を、血まみれになった手に覆われる。
「こ、こ、に……いて、く……れ……」
「はやく、医者を……っ」
「……俺、は……も……う……」
「エス……」
急速に血の気が抜けていく、エスカー様の顔。
先程の男たちに襲われた時よりも、ゾクリと身の毛がよだつ。
「エスカー様!! 絶対にお助けしますから!!」
私は大きなエスカー様を背中に担ぐと、森の出口へと急いだ。
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