ユグドー、真実を映さない鏡編
ヴォラントの冒険譚に曰く。
ユグドーと小さな漁村で出会った海賊。
十五年にも及んだ──本人の精神は、悪魔によって止まっていた──無人島生活から救い出した海賊。
異界の海から来た海賊。
シードラゴン。彼は、ユグドーと別れたあとイストワール王国に接近した。
この世界に新たな海賊の概念を弘めるためだ。海賊とは、海に出た盗賊という認識だった。
当時のイストワール王国貴族院は、かなり驚いたことだろう。
シードラゴンは、国家が海賊を雇い、敵国の商船から略奪行為を行うことを提案したのだ。
ルロワ国王は、シードラゴンがもたらす財と敵国の力を削ぐ効果に疑問を持っていた。
側近たちは、別の意味で危惧する。
シードラゴンが、リュンヌ教国から神罰執行対象に選ばれた過去を持っていたからだ。
リュンヌ教国の発表では、シードラゴンとその一味は、悪魔に騙された異界人であるとした。
この悪魔とは、ユグドーのことである。
リュンヌ教国は、神罰執行対象からシードラゴンとその一味を外したのだ。
そして、イストワール王国に、シードラゴンの監視をするように依頼した。
この決断は、ある事件をキッカケに、新たな海賊の生き方を示すことになったのだ。
✢✢✢
何十年もの間、放置された大霊殿の掃除は無事に終わりをむかえた。
古い建物だ。外観だけは、この短い間では、どうにも出来ないのだ。
それが、歴史的価値を高めてはいると言えなくもない。
玄関から中に入れば、別世界のように、生まれ変わっている。
古く、腐ったものは全て片付けられた。
大蜘蛛によって破壊された屋内は、見事に再生されている。
糞尿、死骸、ゴミも跡形もなく清掃された。
朝の日差しを部屋の中に投映する窓は、爽やかな風に音を立てている。
都区長は、二階から下りてくると満面の笑顔をこちらに向けてきた。
「お二方とも気に入ったようだ。後は、王妃陛下がお越しになれば、すぐにでもご出産となるだろう」
都区長は、労いのつもりだろうか。ユグドーの肩を優しく叩いた。
そして、片手に握られていた小袋を、テーブルの上に置く。
金属の擦れる音が、部屋に響いた。
「これは、報酬だよ。よくやってくれたな。これで、私の悪夢も終わる。しかし、ユグドー。君の掃除の腕はまるで魔術だな」
都区長の声色は踊っていた。ユグドーには、そんなことはどうでも良かったのだ。
テーブルの上に置かれているのは、おそらくは数十枚の金貨又は銀貨だろう。
これを受け取れば、ユグドーの役割は終わりだ。寂しさが、なんとなく心を曇らせる。
ユグドーにとって、今回の仕事はとても楽しいものであった。
まぶたの裏に浮かんだ人物には、苦しめられたが、愛を知ることができたのだ。
ユグドーにとっては、喜びの日々であった。だから、この袋を受け取ることに抵抗がある。
「どうしたんだ? ユグドー。報酬は受け取らないのか?」
ディアークは、ユグドーの目の前で手を振った。ユグドーは、笑顔をつくろう。
(報酬は、受け取れない。僕は、お金よりも価値のあるものを知ることができたんだ……)
ユグドーは、報酬を断ろうと言葉を考えていた。都区長に嫌な気分をさせない理由を。
そのようなことを考えていると、階段を下りてくるベトフォン夫妻の姿があった。
マリエル夫人は、いつものように純白のふわっとしたドレスを身に着けていた。
その純白のドレスには、小さな汚れすら見つけることはできない。
やはり、ユグドーの掃除は大成功と言える。ユグドーは、安堵した。
「ユグドー、あの大蜘蛛に荒らされた部屋をよくここまで綺麗にしたものだな?」
「大蜘蛛……?」
ディアークは、怪訝な顔で首をひねった。ユグドーが事情を説明しようとしたが……
ノルベールは、満足げな表情で拍手をしていた。マリエル夫人も春の日差しのように微笑んでくれる。
その並んだ姿は、ユグドーの脳裏を抉った。どこかで、見たことのある光景だ。
ベトフォン夫妻の温かな拍手の音が、残像を消し去ってくれた。
ユグドーの心の奥に届くたびに。嬉しさと悲しさが反響する。
愛の苦しみだ。ユグドーは、そう感じていた。
「ユグドーよ。ベトフォン大公もこのように、喜んでおられるのだ。報酬を受け取りなさい」
都区長は、少し不安そうな顔を浮かべてノルベールの顔を見る。
ユグドーは、思い出していた。王都メモワールの裏通りでの日々を。
あのとき、悪霊が言っていた。お金には、綺麗なものと汚いものがある。
汚いお金は、何に使っても心は痛まない。でも、綺麗なお金は、使うたびに後悔をする。
このテーブルに置かれた報酬は、まさに綺麗なお金なのではないだろうか。
ユグドーは、受け取らない決意をさらに固めた。これを使えば、後に悔やむことになる。
「僕には、綺麗なお金は受け取れません。きっと、後悔する。あの……あく」
ユグドーは、悪霊のようにと言いかけて口を閉じた。すでに悪魔だと、告白はしている。
ベトフォン夫妻の前で魔物と話までしたのだ。
それでも、自分を善人に見せたい。善人だと思って欲しい一心だった。
「何を言ってるんだ? 金に綺麗も汚いもないだろ? これは、労働に対する対価だ。ユグドー、受け取らないのは、労働をしていないというこ……。あ、いや。とにかく、受け取っておけ。な、ユグドー?」
ディアークは、慌てたようすでテーブルの上にある小袋を掴むと、ユグドーに押し付けてきた。
「まぁ、待て。ディアーク君。マリエルも、ここを気に入っている。ここでならば、良い子を産めるとな? それは、王妃陛下も同じだろう。ユグドー? 何故、受け取れない?」
「労働ではなく、愛だから?」
ユグドーには、それ以外には思いつかなかった。
それが、その言葉がすべて解決してくれる気もしていたのだ。
心に迫る寂しさと、愛という言葉を思うたびに。
いや、マリエル夫人を見るたびに浮かぶ苦しみの残像を表現する言葉。
ユグドーには、愛という言葉にしか変換できないのである。
ディアークは、頭を抱えていた。気持ちはわかる。あれだけ、一生懸命に説明してくれたのだ。
ユグドーが、間違っているのだろう。
「愛? ユグドー。誰に対するどのような愛なのか? 愛には、様々な種類がある。答えようによっては、ここで斬ることになるが?」
ノルベールは、その剣の柄に手を添えた。
マリエル夫人は、止める様子もなく優しい微笑みをユグドーに向けている。
「ノ、ノルベール様。こいつは、まともな教育を受けられない環境にあったんです。無礼になるということすら、考えていないのです。何卒、寛大なご処置を……」
ディアークは、ユグドーの目の前に立って両手を広げた。ユグドーは、ノルベールの目を見つめた。
「ディアーク君、我は、本気だ。ユグドー、本気で答えてもらうぞ。それは、何の愛か?」
ユグドーは、聖門長の問いを思い出した。あのときは、答えられなかった。
嘘とごまかし。
ユグドーは、心に宿った答えを正直に言うこと、決して気持ちのいい言葉に変換しないこと。
今度こそという決意を込めた。
「最初は、名誉な仕事だと思いました。マリエル様に喜んでもらえてから、名誉よりも異性愛のために仕事をしていました」
違う、違うな、ユグドー。もっと、深い。君の記憶の中に答えはあるだろ?
声が聞こえた。悪魔の声だ。ユグドーの言葉を否定した。でも、いまさら発した言葉は取り消せない。
また、否定すべきなのかも分からない。
「ユグドーさん……。たった一日で随分と積極的になりましたわね。でも、正直な気持ちを話してくれて嬉しいですわ。閣下、この素直な告白を気に入らないと仰るの?」
「お待ち下さい。異性愛という言葉を教えたのは、この私です。ディアーク・ベッセマーです。私が扇動したのです。斬るなら、私を……」
都区長は、困惑したように目を瞬かせる。口をぽかんと開けて、力なく立ち尽くしているようだ。
「なるほど……。この報酬は、マリエルの出産祝いとして受け取っておこう。良かったな。マリエル、子供の時からの願いがかなったではないか?」
ノルベールは、柄から手を離すと、ディアークから小袋を受け取った。
ディアークは、その場に崩れ落ちる。
都区長は、焦点のあっていない目つきで乾いた笑みを浮かべた。
「はい。やっぱり、閣下は素敵な方です。わたくしは信じていましたわ」
「いやいや、いやいやいや。貴族としての誇りは? 自分の妻が、こんな……。平民なんか……ぅぅ、いや。他人の男から侮辱を受けたのですよ。それを許すんですか?」
ディアークは、頭を左右に振ると立ち上がった。ノルベールに詰問する。
ユグドーは、驚く。ディアークの名前を呼びそうになって、ぐっと堪える。
ディアークは、ベトフォン家を恐れていた。
しかし、そのベトフォン家に怒りのような感情を堂々とぶつけているのである。
「我は、もちろん許さなかった。ユグドーが嘘をついていた場合だが。嘘でないならば、それでいい。ディアーク君、君こそ『嘘』をついていないか?」
ディアークは、握り拳で自分の足を殴った。そして、顔を伏せた。
「ベトフォン家の人間は、強さも人間性も異次元だと聞いていましたが。本当でしたね。ははは……」
「ユグドーよ、それで? この屋敷は完成なのか? 君のことだ。まだ何かしたいのではないかな?」
ノルベールは、マリエル夫人の前に椅子を置いた。座るように勧めた。
マリエル夫人は、大きくなったお腹を支えながらゆっくりと座る。
ユグドーの脳裏に浮かぶ、苦しみの残像。振り払うように、ユグドーは、考えていたことを話す。
「……黄金、この大霊殿を……。この、ベトフォン家の紋章のような金色にしたいです」
マリエル夫人のみが、ユグドーの意図を理解したのか喜んでくれたように感じた。
「ほら、わけがわからないでしょ? これが、ユグドーなんですよ。だから、あまりコイツの言うことを真剣に聞かないほうがいいですよ……」
ノルベールは、マリエル夫人の顔を見つめると、ため息をついた。
「黄金か……。まぁ、龍族は、黄金を好むと聞いたこともある。それなら、あの王妃も……。いや、そうだな。マリエルに黄金の産屋を用意してやるがいい」
ノルベールは、思案顔を浮かべていたが、口の端を歪めてそう言った。
龍が黄金を好むというのは、ユグドーも知っていたことである。
それにしても、龍族は、黙って静観しているつもりなのだろうか。
アーデルハイト王妃は、龍族の娘だという。
龍族の娘アーデルハイトを欲したルロワ国王が、彼女を攫ったらしい。
それで、イストワール王国と龍族は、戦争になっている。
戦況については、知らない。この街からも、数え切れない騎士や兵士が派遣されているようだ。
「ユグドー、俺の気持ちは変わらない。貴族の世界は、お前の愛が通じるような世界じゃない。お前を貴族の色事に巻き込ませたくはない」
ディアークは、目を閉じて顔をしかめた。
ユグドーには、理解できない強い思いが、ディアークにはあるのだろう。
「君は、ユグドーの家族なんだろう? ならば、守ってやればいい。その剣は、何のためにあるんだ? 騎士とは、忠と友と愛を守るために剣を握るもの。そうだろう? マーシャルの騎士よ?」
ノルベールは、ディアークの剣の柄頭を叩いた。ユグドーは、自分の腰を見る。
そこには、剣はない。悪魔の力のみに頼っていたユグドーには、あるはずもないものだ。
ユグドーは、改めて思った。
何かを守るためには、十二支石や悪魔の力のようなリスクの高い特別なものだけではない。
剣のような低リスクの力も必要なのだろう。
(ディアークに、剣を習おうかな……)
いずれは、十二支石を探す旅にでるつもりだ。
古都ジェモーに立ち止まる理由は、情報を集めるためでもあった。
今やユグドーは、マリエル夫人らと別れることに寂しさを感じている。
それでも、十二支石を探して力を手に入れ、救うべき人を救うという目標に変わりはない。
「で? ユグドー。この大霊殿を黄金に染めあげるための方法は考えているのか?」
ユグドーは、あっと声を上げた。ノルベールから指摘されて、はじめて気が付いたのだ。
(そういえば、どうすればいいんだろう……。本物の金を使えればいいんだけど……)
普通ならば、黄金樹を使うのだろう。黄金樹の樹液や樹皮などから金色の染料を作る。
これは、龍族の里に自生する。当然、人の手には触れることもできないものだ。
ユグドーは、他に方法はないものかと、思案に暮れるのである。
✢✢✢
ヴォラントの冒険譚に曰く。
ルロワ国王が、シードラゴンの提案に不敵な笑みを浮かべて触手を伸ばした。
そのキッカケは、タブラン号事件である。
アミュゼ王国の秘密輸送船であったタブラン号をシードラゴンの船団が、拿捕したのだ。
ユグドーが、大霊殿の清掃作業をしている頃の話である。
タブラン号には、七宝と呼ばれる宝石や鉱石の中でも、高値で取引される品々が積み込まれていた。
それだけでも、イストワール王国に多大な利益をもたらしたのだが。
ルロワ国王の目を引いたのは、古びた石である。
イストワール王国は、リュンヌ教国に対して歴史的価値のある古代の石版を手に入れたと説明。
リュンヌ教国は、その石に関しての所有権を黙殺したのである。
また、アミュゼ王国は、イストワール王国の専横をリュンヌ教国に訴えることはなかったのだ。
ただ、イストワール王国に対して、説明を求める声明を発表しただけである。
全ては、海賊のやったこと。その海賊は、既に処刑済みだ。そのように、ルロワ国王は返答した。
近年、タブラン号事件で、ルロワ国王が、手に入れたのは、十二支石ではないかと言われている。
何にしても、シードラゴンは、私掠船船長の地位を得たのだ。
それは、この世界ではじめてのことであった。
【ユグドー、真実を映さない鏡編】完。
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