美しい定義

――― メルギトゥールだったと云うだけ―――

呼びたくても呼べない、たとえ呼んでも声は届かない、それともまさか呼ぶに値しないとでも云うのか、いずれにせよ言ったそばから薄く声にして笑ったのが、子供だったその時は勿論のこと、その横顔は覚えていても今でさえ意味するところの量り兼ねるのは同じだった。

母と呼べる者が他にある筈もない、理由はどうあれ呼ぶことのないのは最早そうではないと言っているのか。

元よりその生活が人間のそれと格別に違うものだとは思わなかったし、まして魔法などと云うものに頼る生活をしていた感覚もない、訪れる者を癒す力が確かにそう云うことであるのは感じはしても、何かの職人の手仕事と変わりのない時間にも思えたし、子供心にはまるで医師のようでもあったと云える、それに専ら母の一日の大半は畑仕事やランプの燃料の為の椿の実を搾ることなどに充てられていた記憶ばかりがある。

「メルギトゥールの行方が知れないことと、その母親の方とも接触のなかったことが、例えば原因を同じくしているとでも思うのかい」

「同じ、原因――― いいえ、そうじゃないーーー そんなにはっきりと何かを思ってるわけではないの、でもあなたなら、私がずっと見当さえ付けられなかったことを分かるのではないかと思っただけ、それにーーー 」

「なんだい、でも先に言っておくけれど、僕も時無しもメルギトゥールがこの時点で生死すら分からなくなってるなんてことを知らずに来たんだ、それどころか僕に至っては君がその本人だと思ったくらいなんだから」

「この時点――― なんだか妙な言い方だね」

ルーメンが少し首を捻るような仕草で言って、更に

「何か別の時点もあるような言い方に聞こえるけれど」

そう言われて寧ろミドラーシュが目を丸くして

「おいおい何てこと言うんだい、君たち自身の傑作じゃないか」

「けっさく、それ、一番の作品てこと」

マルガリータにも訊き返されて、ミドラーシュは怪訝な顔をした。

「そうだよ、この世界に時間と云うものを定義したのは君たちじゃないか、それによって生きると云うことと死ぬことの繋がりに手を掛けたようなものさ」

「そう云うことか、いや、僕が言ったのは、思索的なことではなくて、もっと単純、いやどう言うべきかな、とにかく君は今この時点でと言った、少し言い直せば、この時点ではそうなっているとは知らなかったと言ったんだ、違うかい」

「違わないさ」

「なら、ならばだよ、一方何もかも分かっている別の時点があると云うことにならないかい」

ルーメンが目付きまで変えて言うのをミドラーシュは漸く思い当たるように

「そうか、そうだった、定義こそしても君たちはまだ手にした訳ではないのだったね」

「手に、それは時間のことを言うのかい」

「そうだけど、それをそう呼んだのもそう言い表したのも君たちさ、僕たちは元々そんな美しい表現はしていなかった」

「美しい、それも時間のことかい」

「そうさ、咲いたら花は枯れるだろ、人も生まれて死ぬ、世界はその繰り返しさ、あらゆる生と死の繰り返しなんだ、その無限の反復だけだったところに、そこに短かかったり長かったりする流れを作ったようなものさ、君たちはその流れる方向の中に生きてるのだからそう云う表現になったんだろうね、まさに生き方が生んだ傑作だよ」

「そうかい、そう言ってもらえると嬉しいよ、それで、その、手にするとはどう云う意味なんだい」

「君たちはその一種の例えとしての流れの中にはいても動作としてはその意義を超えることは叶わない、そこまでは手に出来ていないと云うより、自分で作った定義によって性質を決定したようなものさ」

「定義とはそう云うものだろう」

「そうだとはしてもそれは単なる言葉さ、美しい言葉で輪郭を付けたに過ぎない」

「それがつまり手にできていないと云うことになるのかい」

「君の手にあると思えるならある、無いなら無い」

ルーメンは自分の手を見ながら空のそれを握ってそして開いた。

「時点のことは」

「つまり君たちにとっては、メルギトゥールが完全に生きていた時点のことは辛うじてマルゴーの記憶でしかないけれど、簡単に言うと僕たちはその時点へ動作が出来るんだ、それはひとつの出来事としての時点、そして君たちの言う過去とは別の概念さ」

何もない空間から現れたとしか思えないことに始まるこの空想が、折り重なって延伸し、その本人による証言としてルーメンに今手渡された。

ミドラーシュはルーメンからマルゴーに視線を戻すと

「それに、なんだい」

急に自分に話しを戻されてマルゴーは戸惑ったが、さっき続けて訊こうとしたことの、訊き方そのものに迷うようなことだったのを、今先にその迷いだけを取り除かれたようなものだった。

「さっきあなた、私が、お母さんはもういないと言ったら、そしたら、それは問題ないと応えたの」

ゆっくりと思い出しながらマルゴーが言うのを、ミドラーシュは放心したような顔で上目に見ていた。

「ああそんな言い方だったかな、つまりその問題ないとの根拠を知りたいんだね」

「--- 根拠なんて、あなたはお母さんはまだ生きてるつもりだったのでしょう、でも私にそう言われても少しも驚きも慌てもしなかった、だから」

「実は今言ったとこなんだけど、この僕たちの存在している時点にはいないけれどいる時点に行くから大丈夫だって言ったんだよ」

マルガリータが何も発せず、肘を折った両手をただ大きく広げて、すまし顔を横に振りながらゆっくりと椅子に腰を下ろした、そして

「私、いつ立ち上がったのか覚えてないわ」



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