ルーメンの矛盾

「私も心情的にはマルガリータさんの仰ることに賛同します、良いこととは人の倫理に照らしてそれに背かない行いのこととして、もし一切何ものにも影響を与えない完璧に私的な行為に留まるのであれば、主観だけで全部を良いこととして何ら差し支えありません、ですがいくら道理にかなっていても、如何に些細なことであったとしても、自分以外の何かに向ける行いであるならばその相手に良いこととして受け入れられるかどうかで忽ちその成立が左右されます、例えばまず理念だけを伝えた時点でそう認められていたとしても、実行に移した途端否定されてしまわないとも限りません、つまり仮に一つの良いことの中でもミドラーシュの言う時間や状況の区切りごとに違う制約を受けるのではないかと云う懸念も客観的評価次第ではおのずとしてあると云えます、医学の進歩が良いことであるのは、その目的が人を病の苦しみから救うとする大命題で十分にその真が証明されていますが、この場合その進歩と云う一筋縄ではいかない動勢を客観的に評価したとしても現実的にはその全てに渡っては難しいでしょうし、おそらくは失敗や間違いなどの内実が可なり存在してしまうことも想像できます、マルガリータさんの言う「失敗でも」と云う論理も逆説としては私も大賛成ですが、過失を孕むような失敗なら真説にはなれないかもしれません、則ちもし進歩の沿革全てそのものを完全に評価すれば、良いことと云い切るどころか云えるのかどうかと云う議論になるかもしれないし、まして客観にも個性がある為その方法を限定しないとなれば猶更そのようであるだろうし、得てして必ずしも正しくなければ進歩ではないとも言い切れないと云う亜説も生まれてくる筈、つまりそれは医学に限ってか、それとも人類のあらゆることの進歩に言えることなのかはすぐには分かりませんが、私の結論としては進歩は良いことであってもけして無条件ではないと云えるーーー ならば条件付きの良いことは果たして良いことなのか、例えば苦しみからの解放と云う良い筈のことに、その解放の形と云う条件がもし付くとしたら、そしてその形の選択肢が生かすと云うことだけとは限らないとしたらーーー 」

意識か無意識かルーメンはいつの間にかマルガリータでもミドラーシュでもなく俯いているマルゴーの方を見ていた。

「ルーメン、あなた賛同してくれたことはいいけれど、今おかしなこと言ったわ」

遮る言葉にルーメンは夢から覚めたような顔を向けた、そしてマルガリータもルーメンの見ていた方を気にしながら声を潜めた。

「だってお医者にとっての苦しみからの解放は生かすと云う形以外にはないじゃないの、それ以外に救うなんてことあり得ないわ、そりゃあ手を尽くしても救えないことだって現実的には幾らもあることでしょうけど、せめて生かしたい気持ちが先に無ければ救える人も救えないのではないの、厳しい言い方だけど結局生かせないなら救えなかったってことでしょーーー それともあなたまさか尊いなんて言っておきながら、今さら死を以ってなんて残酷なこと平気で言うつもりじゃないでしょうね」

父親似の大きくはないが切れ長の両まなこをより細めて、マルガリータは恐い目で見た、見られたルーメンは視線を合わせずたった今自分で口にしたことにまごつくようだった。

「平気だなんてーーー 医学のその意義は決定的です、ただ」

「何なのよあなたまで、この子のが伝播でもしたっていうの、はっきり仰いな」

ルーメンはマルガリータとの四つか五つの歳の差をその倍にも思うほど、相手を幼いと見るのではなく、年齢以上の慎みを崩さずにいられると自負するところがあった、しかしひそめた言開きのチラつく辺りまで話の来てしまっていることに突如それが消し飛ぶほど尻込みしたのである。

端からルーメンの年嵩など気にも入れないマルガリータはすぐさま

「ミドラーシュ、いったいルーメンは何に怖気づいてるのかしら」

訊かれた少女はその瞳を右と左に一度行き来させると静かに答えた。

「君が今さっき指摘したことだよ」

「そうなの、私が彼の何を指摘したって云うの」

「撞着さ」

「なに」

「矛盾です、そうなんです」

ルーメンは気持ちを切り替えたような顔をして言った。

「――― 定義に自分の体験を要素するつもりはないんです、ただ、祖母のことで、随分前のことではあるのですが、ついそのことが過ってーーー マルガリータさんの仰る通り、生かす以外にないと言明すべき筈なのに選択肢なんか持ち出してしまって」

「それって、やっぱりさっき私が触れたようなこと」

マルガリータは眉を寄せて一層声を低くした。

「ええ、祖母が亡くなる時、その直前の病床でひどく苦しんでいたんです、私はまだ子供でしたが、それをとても見ていられなくてーーー 心の中で早く苦しみから解放してあげてくださいと、そんな気持ちで必死に祈ったことを覚えています、でもそれはつまり祈ったと云うより、早く召されることを望んだと云うことです、その時はそれが祖母を救うことになると思ったのかもしれませんが、おそらくは見ていたくなかったと云う方が事実でしょうーーー 亡くなってから今日までせめてものこととして祖母には詫び続けていますが、その見ていたくなかった気持ちは前よりも強くなるような気さえして、今でも自分の中には変わらずにあるんです、いくら詫びたところで私は悔いてはいない、つまり良いことを論じる資格さえないと云うことなんです」

両目を見開いて、最後は口ごもるような言い方になっていた。

「だってそれはーーー そんなこと言ったら私だってーーー そうよ、混乱してたのよ、いずれにしたってそれはおばあさまを苦しみからお救いしたいと願う心だから、それはきれいな心よ」

知りたいと言ったことに向き合う二人を見ていたミドラーシュは、いつしか底に沈めてある事が水面に浮いてしまっていることに気付いた、時無しの為ではない、助けてあげられたらいいとは思ってはいる、そこに嘘があるわけではない、しかしそれは後のことで先には自分がある、まず自分を救う為に時無しに付いて来たのだ、だから誰かの為にしたことではない、つまり、自分のしていることが良いことにはならないのは最初から分かっている。

ミドラーシュは全て聞こえている筈の時無しをぼんやり見ていた。


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