良いことの意味

ミドラーシュはルーメンとマルガリータの方を向くと、少し考えるような丸い目をしてそして合図のように両の眉を上げて言った。

「今君たちは腑分けをしていると聞くけど」

目の前のマルゴーのしていることがなかったらミドラーシュの言う言葉を聞き逃しているか感知出来なかったかもしれない、ルーメンは訊かれていることがすぐ分かった。

「よく知ってるね、僕も去年までまだ大学にいたからそんな話だけは聞いているけど」

「でもまだその仕組みについてはよく解かっていないんだろう、それに薬と云ったってもう永いこと芥子頼りだ、それではどれほども癒すことにはならないのだろうけど、でもその取り組みがいつかもし進んだとしたら、それは良いことと云うことになるのかい」

「そう云うことか」

ルーメンは隣のマルガリータにも聞こえない程に呟いた。

「あの子最初に何て言ったの」

マルガリータは本人にではなくルーメンに訊いた。

「腑分けのことでしょうか」

「ふわけ、それって何なの」

「解体のことです」

「かいたい」

女性でしかも若いマルガリータが解さないのは当然かもしれず、ルーメンはそれ以上その顔を見て重ねることには遠慮してミドラーシュに向かうと

「まだ臓腑の位置や役割を知ろうとしている段階なんだと思うよ、ほんの噂ほどに聞いただけだけど、学術的な探究なのだからもちろんそれは良いことさ」

その言葉を聞いて初めてマルガリータも意味を把握してミドラーシュが言っていることを捉え直そうとした。

「学術的に、つまり教養として良いと云うのかい」

「――― そう云う知的興味としてではないけれど――― 」

「本当に」

重ねて疑問に当てられるとルーメンは言葉を詰まらせた、正に今目の前で見せられている云わば占術的とも云えることを否定するつもりはないし、もはや出来る状況にもなかったが、つい口を衝いて出てしまった言葉をミドラーシュに拾われて戸惑った、そして少し考えてから

「いや、やはり学問にすることには意味があるよ、我々にはそろそろそういった体系的な知識が必要なんだ、きっと」

「それはつまり、人間は新しい世界を目指すと云うことなんだね、そこに進む為の探究には当然そう呼ばれるところがある筈だ、ならそれは、その探究の一体いつからと云うことになるんだい、どこからと云うべきかな、やはり死すべきものを生かした時初めてなのか、それとも仕組みが分かった時点かい、いや、結果や内容と云うよりも、そもそも時間を掛けていると云うことが重要なのかな」

ルーメンは想像されるミドラーシュの先の用意を察しているつもりだったが、まるで心からの疑問だと云うようなその表情に真表から答えずにはいられなかった。

「僕も専門じゃないから詳しくは解からないにせよ君の言う生かした時と云うのはこの学問の最終命題のようなものだとは思うけど、その向上には終わりが無いような気もする、しかしだからと云って病を治し命を救わなければ良いことにならないと云う訳でもない気もする、第一そこに辿り着くのにはおそらくまだ相当な時間と研鑽が必要だろうし、それをやり抜くことも十分に良いことと云えるのではないかな、その掛けた時間になど関係なく、ましていつからと云うものでもなく、云わばそれに関わる全てが尊いことと云えはしないかなーーー ミドラーシュ、君は、その取り組みが良いことなら、同じ命を救う試みとしてその契約と云う行為も良いことではないかと言いたいのかい」

「いやそうじゃない、なにも比べて正当化しようと云うんじゃないのさ、そのことはもういいんだ、マルゴーの言ったこと、つまりメルギトゥールが契約を嫌ったことに同調した理由については母親への信頼の証と云うことだしね、それくらいは僕にも分かるんだーーー 例えばなんだよ、例えば知りたいのは君たちのその医術の取り組みを良いこととするなら、それが良いことと呼べるのはいつどの瞬間なのか、何を以て良いことになるのかが知りたいんだ」

「だからルーメンは全てが尊いと言ったじゃない、あなた案外馬鹿なんじゃないの、人が苦しんでるのを助けてあげるんだから全部いいに決まってるでしょう、どの瞬間だなんて全部よ全部、あなただって同じようにたった今良いことをしてるわ、時無しさんとあの人の為に力を貸してあげてるんだから、その為に一緒に此処へ来てあげたんでしょう、その心も行為も全部が良いことなのよ」

ルーメンの答えが纏まらない内にマルガリータが気の急く声で言うと、またミドラーシュは纏っている布の端を摘まんで叱られた子供のような上目遣いをした。

「――― 僕が、良いことをかい」

「ええそうよ」

「僕の心が」

「そう」

「でも、でも行為は、行うことは、それはすべて上手くいくことが前提なんだろう」

「やっぱり馬鹿ね、いくらいいことでも全部が上手くいくとは限らないわよ、そんなの決まってるでしょう、全部上手くいってたら世の中に不幸なんて無くなるじゃないの、もちろん無くなった方がいいけど、どうしたって失敗することが幾らでもあるのが現実てものよ、むしろ失敗の方がずっと多いくらいなんだから、だとしてもよ、そうだとしても、その失敗だって良いことなのよ、きっと、私はそう思うわ」

「――― 失敗が、いいこと」

「がじゃなく、でもよ」

一片の迷い無いマルガリータの言葉はミドラーシュにとっては余りに強すぎて、まして人間のそれとして完全に疑い無く聞くことの準備さえなかった、それはまるで答えを聞かされても呑み込めないでいる子のようにミドラーシュをぽつねんとさせた。

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