犠牲と契約
名に纏わる記憶はけして多くは無いが、刻まれたものが消え失せるほどの時が経っている訳ではない、捕まった者たちがどうなったのかまでは子供のマルゴーには分からなかったが、母と二人で馬に乗せられ走り出す時「きっと無事でいて」と馬の背に抱き上げた者に言った強くそして悲しい母の声には人に通わせる心のあるのが分かった気がした、それは初めて聞く声であり、その者は母の名を知っていた、仮に仲間と呼ぶならば思い当たるのはその者ぐらいでしかない。
それまでも暮らしたのはいつも二人だった、稀に町に出掛けると云っても田舎のことでそれほど賑やかなマーケットがある訳でもなかったが、それも避けて外れの雑貨屋で済ますようにし、其処に無いものは序と云って注文するのが常だった、必要最小限を求めるだけで何より余計な関わりを持つことを避けているのは子供心に感じていた、その雑貨屋でも母がけして気を許していないことは言葉遣いからも分かったが、その店の老夫婦はマルゴーが大人しく用が済むのを待っているのをいつも微笑んで見ていた、しかし何度訪れても親しみと云うものを増やそうとしない母親に気兼ねしてか名前さえ訊いてくることもなかった、それでも帰り掛けに妻の方がよく棒付きのキャンディーを差し出し、母親の頷く顔を見てから手を伸ばすマルゴーを堪らぬように
「お願いだよ、少しだけでいいんだ、少しだけ」
そう母に言ってから、まるで今生の分かれのような抱擁をするのだった。
ランプを預けて頼んでおいた火屋を引き取りに行った時だった、店を出てやがて街中をただ抜けていく途中で、マルゴーより少し年嵩の男の子が行き交う人込みの中に立ち止まって此方をじっと見ていたことがあった、それに母は気付く様子もなく歩き続けたが、手を引かれたまま振り向くと少し離れて付いて来るのが見えた、暫くして母は店の無い路地を曲り途端にランプを置いて自分を抱くと一瞬で屋根を幾つも飛び越えた、直接森には向かわず反対方向の高台で廃墟となっている神殿跡に身を隠すと、母は焦る様子も怯えるふうもなかったが夕闇が迫る頃になるまでそこでマルゴーを抱き寄せた儘じっとしていた、その場所は元はいにしえの者が女神を祀った所だったと教えてくれたが、あの少年が何者だったのかを言うことはなかったし、訊くこともしなかった、その時だったか別の日だったか恐らく一度だけ母の母親の事を訊いたことがある、訊いた記憶そのものは無かったが訊かれもせずに話す人ではなかったからそう思え、こちらを見ずに横顔を向けた儘答える母を覚えている。
「母―――――― あれは私の前のメルギトゥールだったと云うだけさ」
ただそう切り言って後は何故だか笑っていた。
時に森の家を訪ね来る者は同じような目的で殆ど女が女を、もし男であるならばまだ幼い男の子を連れていた、母は頼みの内容によっては応じてお金を受け取ることもあったが、断られた者が理由も分からず帰り際に腹立ち紛れの口汚い言葉を吐いて出て行くと、連れて来た女が必死になって謝って、机にお金だけを置いていくことも何度かあった、それを母はいつも寂しげな表情で見送り、その中にはその名で母を呼ぶ者も何人かはあった。
「ミドラーシュ、あなた、さっき私に、もう君しかいないって言ったけれど、それはどういう意味なの」
傍にはマルガリータとルーメンが当然此方を凝視していることは痛いほど分かっている、問い掛けが望ましくない話しを呼ぶことになるかもしれないことも、しかしその名を知る者としての興味が次第に上回り、それに既にマルガリータらの理解を越えるこの状況で聞かせる話しを選ぶのももはや無意味のような気がし出していた。
「そのままさ、もうこの世界に君たちだけだってことだよ」
「――― さっきは確か君だけと言ったわ、今は君たち、聞き違いかしら」
「いやその通りさ、こうして会うことが出来たからつい君だけといってしまったけど、ただ正直言って君を含めて君以外の者もどうなっているのかは自信がないんだ」
「どうなっているかって」
「無論生きているのかどうかだよ」
「――― それは、亡くなってしまったかもしれないと云うこと」
「生と死以外の在り方があるなら別だけど」
「母を訪ねて来ていたそんな人も記憶にあるけど、確か皆それほど老人と云う訳でもなかったわ、だから何処かで」
「そうか、やはり知らなかったんだね、それを想像するには君はまだ幼気なかったと云うことか、いや、人間のあんな無慈悲に想像の追いつく年頃なんてない、いいかい、亡くなったとしてもそれは老いたせいなんかで死んだんじゃない、殺されたのさ、ほら、目の前のこのことが正にそうだよ、人間が裁きなんて言ったってこの始末、見たら分かるだろう、この者が被った拷問は故意に死を確定させているも同然だ、拷問官も司直も酒を呑みながらやるのさ、真面な見極めなんて出来るどころかする気もない、自白しようがしまいがどちらでもいいんだ、要はこの人のお腹に産まれる寸前の児があることだけが奴らの興味なのさ、叫び声さえ飲み込んで腹の児を命がけで庇う女を見て楽しんでいるんだ、そもそも端から斧を振り上げてると云う訳だよ」
この目の前の残酷が耳を疑うような話をより際立たせ、マルゴーは朦朧とした。
「--- 自白するって、それじゃ、まさかこの人も――― 」
「濡れ衣だけどね、酷いもんだよ大方がそんなことだったんだから、君も捕らえられた大勢の女達のことくらいは覚えてるだろう」
あの時そんな瀬戸際だったのだとマルゴーは初めて思い当たった。
「その通りさ」
「何が」
「だから、君たち母娘だけだよ、あの日あの場所から逃げ果せたのは、岩牢の鍵を奪って開けたまではいいけれど、結局逃がすことができたのは君たちだけだったと云うことさ、まあ、それがあの者の目的だったろうし、そもそもメルギトゥールが大人しく人間なんぞに捕まってたこと自体も可笑しいと云えば可笑しいんだけどね」
言われてみればそうなのかもしれない、しかし母がどれほどの力を持っているにせよ、それを使うと云うことは自身を曝し見せると云うことであり、私にさえ見せなかったあの母ならばやはり限界までそれを避けようとするだろう。
「あの人たちは皆この人みたいに――― 」
「ああそうさ、この人は守るものがあるから死ぬことを拒否して耐えきったんだろう、驚くべき意志だよ、無ければとっくに舌を噛んでるさ」
「なんで、そんな――― それじゃ」
マルゴーは浮かんだその言葉を口に出来なかった。
「これは人間の人間であることの罪さ、罰は当然人間にで、君たちにとっては君が感じる意味では無縁のことだよ」
「でも、私たちがいるからーーー 」
「仮にいなくったってやってたさ、作り出してでもやろうとする業が奴らにはある、つまりは君たちの存在そのものはどうでもいいことなのさ」
「でもーーー 」
「自分たちの教義の優位を守るために劣悪とするものを態と用意して、それを斃す筋書きで辛うじて団結してるのさ、君は犠牲のことを気にしてるんだろう、死んだものたちはそう云うことにはなるけど、君たちだって沢山同じ目にも遭ってるんだから、もはや選別する意味などない、どちらであることの真偽より兎に角たくさん殺すことが必要だっただけなのさ、でもうっかり認めさせられた者は確かに酷い、同じ死ぬのでも拷問で散々甚振られた上にあとは生きた儘焼かれるんだからね、それを見物しながら自分たちの本義を守ったくらいに雄叫びを上げるのさ、その為の死なんだ、全くもって狂ってるよ」
少女が人間のことをこき下ろす度に、マルゴーはまさにその人間である傍らの二人への気兼ねで身の縮む思いだった。
「そうだった、此処は人間の支配する世界だった、失敬失敬」
そう言ってルーメンの方を少女は一瞥した。
「他国にはそう云う審問官までいるとは聞いたことがあります」
ルーメンは小さく低くそれだけ言った。
「メルギトゥールともなれば人間が簡単にどうこう出来るものではないけれど、多少の力があると云っても手前の者達ではそうはいかない、特に契約してなった者は沢山やられた筈さ、寿命の短い非力な人間だが彼らには与えられた智慧と数がある、これにも何か意味があるんだろうけど僕にはよく理解できない、作り出す道具はとても厄介なものだし、契約したくらいの力ではそれにはどうにも諍えないんじゃないかな、中には運良く捕まらずにどこかで息を潜めている者もいるかもしれないけど、いずれにしてもさっき仲間と言ったのはその不運な人間のことではないし、君の記憶にある者でもおそらくない、それは君達が糸と呼ぶ直系のことさ、それがもう君だけかもしれないと云う意味なんだ」
「糸――― 」
幼い頃の記憶と云うものは、幾ら冷たく暗い陋屋であっても、またそれが死の寸前だったと云うことであっても絶望感など無い単なる人形劇の一場面の様なものとなる、今の今、その絵に音が付いたようにマルゴーはミドラーシュの言葉に聞き入った、もしこの状況でなければもっと少女に聞き質していただろう、おそらく自分より自分を知る者への興味は一気呵成であり、内心をかき乱す、ただマルガリータとは云えそこまで人間が根絶やしにしようとする種族であると明らかになった今、果たして背中でどのような視線をこちらに向けているかが気掛かりそして恐ろしくはあったが、どうしても続く言葉を止められなかった。
「思い当たることが無い訳じゃないけど、あなたの言うことは私たちの事だとしても、悔しいけど言葉の意味さえ分からないことだってあるくらいなの、あの日のこともお母さんは私を怖がらせまいと目も耳も塞いでくれていたのかもしれない、私にはそう云う人だったから――― こんな身の上だって生まれたことを恨んだりはしないのは愛されてたことが分かるからなの、でもあの頃は確かにいいこともなかったとは思う、幼かった私にはお母さんがいたから未だしも、お母さん自身にとっては恐らくね、あなたの言うその仲間にしてもそう云うからには存在したのかもしれないけれど、お母さんが誰かと心を開いて親し気に話してるのなんてただの一度だって見たことがないし、その一人でも話として口から出たことさえなかったわーーー 私には優しい人だったけれど、誰も寄せ付けないものを放っていたような気もする、そうでもしないと私を連れて生きられなかったのかもしれないーーー でも私はあんなふうに出来なかった、一人になった後も森の中に暫くは隠れていたけれど、寂しくて悲しくてもう死んでもいいと決めて森を出ることにしたの、それで力が続く限り歩いてあの山の村に辿り着いたーーー 何故私たちがそうまで嫌われ隠れなければならないのかあなたには分かるのかもしれないけれど、私には意味が分からない、だからもう隠れるのは嫌、私にはこの今が全てなの、此処で生きられるだけ生きて死ねたらそれでいい、ただ自分のこの血だけはーーー 血だけは決して残さないように、死ねればそれでいいと思っているーーー 本当に、それだけなのよ」
マルゴーが涙を堪えているのがミドラーシュにも分かった。
「ごめんよ、本当に突然で悪かったよ、さっきも言ったけど時間はちゃんと選べないんだ、それに君は一人だと思ってたから――― こんなに知り合いがいて幸せそうにしてたなんて、今が全てだと云うのが分かるよ、生き残ってることだけは噂に聞いて知っていたけど、ノームは、あいつらの言うことはちょっと鵜呑みにしにくいところもあるんだ、しかし君、血を残さないようにって、なぜそこまで思わないといけないのさ」
「なぜーーー あなたこそ何故それを分かってくれないの」
「だって君、その血は、君が考える以上に掛けがえのないものなんだよ、君さえその気なら頼りたいものは沢山いるはずだし」
「やめて頂戴、生きているあいだ中こうやって貴方みたいなのに追われることになるのは御免よ」
「なら母親のように死なせるのかい」
「死なせる――― お母さんが、それは一体どう云う意味なの」
「――― 言い方がいけなかったね、でも君の母親が契約を嫌ったのは有名な話しさ、だからそれはつまり、救えるのに救わない選択をすると云うことにもなるだろう」
「だから死なせると」
「君は知ってる筈だと僕は思ってる、幾ら嫌ったと云っても君たち直系はそれさえ行えばいろんな命を救えることになるんだ、考えてご覧よ、死ぬ運命の王の子を救ったら王は国の半分だって差し出すかもしれない、そんな凄いこと、娘に伝えない訳ないじゃないか――― 」
二人の遣り取りを辛抱するように黙って聞いていたマルガリータはマルゴーを訝るように話し出したミドラーシュに苛立つ形で声を挟んだ。
「世間知らずもいいとこね、あなたそれは全くのお伽噺の成り行きよ」
「どう云うことだい」
「もし王が自分の子供の命をそうやって救わせたとしたら、大体の場合が救った者の命を消そうとするわね、昔から王様なんてそんなものよ」
それを聞いたルーメンはそれこそお伽噺だと思ったが、当然の如く調子を合わせるように細かく頷いて見せた。
話を混ぜ返されてミドラーシュは少し戸惑うようだったがすぐに
「でも、だからって、母が子に伝えない理由にはならないだろう」
「馬鹿ね、王様に命を狙われるかもしれないのよ、立派に伝えない理由になるわよ」
ミドラーシュはさっき頬に口付けられてからどうもマルガリータには圧されるがままの気構えと身構えの合わさったような感じになってしまう。
「まあ、知らないと言うなら仕方ないさ、そうなら言うけど、それもこれも女か子供に限ってだけど大抵の病や怪我を癒すことができるその方法を君たちは力として有してるのさ、それがその血の力だと云われてる、それで済む程度なら外からの力だけで癒してはやっていたそうだけど、それじゃ限界があるからね、今マルゴーがおこなったことと同じさ、でもメルギトゥールのそれはもっと強力なものだったろうけどーーーでもそれさえ、契約さえすればこの人だってお腹の児だって救えるんだ」
「その、契約とはいったい何なの、それには限界が無いと云うの」
「何って、やっぱり、本当に、本気でそう言うのかい」
ミドラーシュは訊かれたことに答えるより思わずそう訊き返した、本当はしらばくれていると決め込んでいるから無感情に迫るような口ぶりで言いたかったが、マルガリータの視線が気になって思い図るような口調になった。
「ミドラーシュ、お願いだから信じて頂戴、私は娘でも本当に何も教えられてはいない、今していることだって一人になってから分かったことで遣り方も何も知らされていた訳ではないのよ、それにこれがあなたたちが望む力でないのは分かるけど、私はお母さんとは違うの、とても私には叶えてあげられない」
いたたまれなさと悔しい様な気持ちから、マルゴーは思わず握りこぶしのまま人差し指の関節を強く噛んだ、一瞬、谷に投げた石が底に当たる音を聞いたような気がした。
「そうか、そうなんだねーーー 信じない訳じゃないさ、ただーーー ただね、由緒と本領の有る名なんだ、それを自分の代で本当に最後に出来るものなのかとね、並ぶ者の無い名なんだよ、その名前にこそ意義があるのに」
「そんなの私には必要ないことよ、言ったでしょ、だって、きっとお母さんは私の為にそうしようとしたのよ、辛い思いをするのは自分までだと、だからお母さんは私に言った、あなたはマルゴーの儘でいなさいって、そう言ったのよ」
「マルゴーの儘――― 」
「それに、その契約というものをお母さんが嫌ったのなら、どんなことにせよ、私には良くないことに思える」
「――― 良くないことかーーー 確かにあの人ならそんな考え方も十分にあり得ることだねーーー そうか、部外者が余計な事を言ったのかもしれない、良いか良くないかは僕にはちゃんとは分からないけれど、分からないなら示唆するようなことは慎むべきなんだろう、けど、君がそう思うならなんだか僕の分からないはそれ自体の良い悪いと云うよりも、いったい良いこととは何かと云うことのような気がしてきたよ」
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