ミドラーシュ

目の前で始まったことをただ見守ることしか出来ない者達は、それぞれが無言の儘、たった今目にしたことと耳にしたことの意味を水車の羽が一枚一枚ゆっくりと送られるように繰り返し頭の中で図ろうとした、彼らは確かに何も無いただの空間から現れたとしか思えない、それは紛れもなくマルゴーを目指して来たのであり、然も彼女の持つ特別な力を頼って来たのである、そして初めて聞く名前で呼び、その者の娘であると言い、その者とは魔法使いであるという、およそ担がれているとしか思えないそれらを全て間近に目撃し乍ら、この覚めない夢のような状況の行方を見届けるべくただ対峙するしかないのである。

出来るかもしれないとしても、かつて小鳥にしたのと同じ様であるはずが、その折には感じなかった体感が今の今あるのにマルゴーはすぐに気づいた、明らかに身体の熱が気味の悪いほど上昇し、それが掌に集まるその症状が血の激しく巡ることに起因していると分かり、それが力だとするなら前よりかはかなり強いものだと思えた。

しかし幾ら集中しようとしてもこれ以上少女と言葉を交わすことでこれまで伏せて来たもの以上の何かが更に明らかになってしまうことに気を取られずにはいられなかった、がいくら嫌がってもそれももう繕うに間に合うものではなく、マルガリータの言葉に取り縋りながらも最早これまでと同じ自分たちではいられないのだろうと観念する気持ちにもなった、すると封印するように仕舞い込んでいた記憶が心ともなく解れ出し、少女が言ったことについ苛立った仲間と云う言葉に思い当たる或る光景が蘇ってきた、この国のあの山の村に偶然辿り着くまで実感として持つことの無かったそれは、もう十数年以上も前に距離も方角さえも今では分からぬ国のと或る町から母親と二人で逃れることになった騒動のさ中、捕らえた者が捕らえられていた多くの女たち同士を指して何度もそう呼んでいた、だがその時子供心にも抱いた違和感は、捕らえられていた女たちをそう呼ぶには、何故かしら母と同じ力を有しているとは全く感じられなかったのと、母もその女達の誰一人をもそう思っていないことが分かっていたからであろうか。

ある未明、地響きがやがて相当な数の蹄音だと分かり、それがまさに此方に迫り来ると気付いた時には家に火が放たれていた、回る火の速さに堪らず幼い自分を抱きかかえた母が外に逃れると、見たことの無い数の兵士が殺意と恐怖に満ちた目で弓を引き切ったたまま取り囲んでおり、兜を被り盾を持った一人が何かの親衛隊だと、そして大人しく馬車に乗るよう震える怒声を浴びせた、扉にだけある鉄格子の嵌った小さな覗き窓以外、まるで真っ黒いだけの箱に入れられると、奥には誰か先に一人が蹲っているようだった、少し目が慣れてきて髪の乱れた顔が分かると、余りに様子は違っていたがその年配の女にはまだ十分見覚えがあった、女は後ろ手に鎖で縛られ足にもぶ厚い板の枷を付けられていたが、暗闇の底から恨みの籠った怯える目でこちらをを見つめ、外の男らはこの女をもそう呼んで母を見て笑っていた。

どれほどの時間が経ったかの感覚は無かった、マルゴーはただ無言で掌を女の身体に軽く当て続けているに過ぎない、他にやり方が有るのかもしれないし、何か唱える言葉でも有るのかもしれなかったが、母親がする時もそうであったし格別に何も聞かされた訳でもない、それでも悶絶する様に朦朧としていた女の意識も完全に途切れ、それは穏やかにさえ聞こえる吐息から深い眠りに入ることが出来たように見えた、ただ幾らかでも癒すことが出来ていたとして、もし仮に意識が戻るようなことがあったとしても、恐らくはこの無残に破壊された下半身には胆力を込めることなど最早出来ないだろう、一体どれほどに挫かれているのか足と呼ぶ部分には元の肌の色はどこにもなかった、詰まりはとてもではないが児を息み出すことなど叶わず、もしこの吐息さえも消えるようなことであるならばそれこそ時を置かずに児だけでも腹から取り出すことを決断しなければならない、マルゴーは果たさねばならない重荷に耐えながら既にその時期の見極めを考え迷い始めていた。

物言わぬ老夫は傍を離れず女を挟んでマルゴーの向かいにしゃがみ込んだ儘だった、この女性の父親なのかそれとも祖父なのか、それは他人を気遣う様子とも思えない程に女の上体と頭を抱きすくめて見守り続けている、それを間近に見ると女とは云えよく背負っていられたと思うくらいに華奢にも見え、風貌は確かに老人の様ではあっても何故か人のそれとはどこか違う、まるで老いているのは見た目だけで、内面と云うよりも皮膚のすぐ下にはまだ未成熟の生命が蓄えられているかの様に四肢と身体には青っぽい精彩が感じられた。

「あなた、名前は」

「彼は時無しと呼ばれているけど」

少女が答えた。

「ときなし――― そうなの、それは時間が無いと云うことなのかしら、だとしたら歳を取らなくていいのかもね、あなたは私のことを知っているの」

面と向かってマルゴーがそう訊いても老夫は顔さえ上げなかった。

「あなたは」

「ミドラーシュ」

「ミドラーシュ、私はマルゴーと云うの、これから大事な話しをするからよく聞いてほしい、時無しさんあなたもよーーー 」

そう言われて時無しの顔の角度がほんの少し傾く様だった。

「――― この人を癒し切ることはやはり私には出来ないーーー 今は落ち着いた様に見えるかもしれないけれど、眠ったのかもしれないし、意識を失っただけかもしれない、この傷は表のことだけで納まるものじゃないわ、こんな話しはしたくはないのだけれど今の内にしておかないと、ひょっとしたら思う以上に遺された時間は無いかもしれない――― この人が、もし、この儘亡くなってしまったら、お腹の赤ちゃんも死んでしまう、仮に容態が落ち着くことがあったとしても、赤ちゃんはもうお腹から出してあげないといけないの、分かるでしょうーーー 」

時無しがまた少し顔を上げマルゴーを視界に入れるようだった。

「表のことだけで駄目なら、内側からしてやっておくれよ」

もはや追いすがるような口調でミドラーシュが言うと

「内側からーーー それは、どう云う意味で言うの」

「君が今、表のことと言ったから、内のこともあると云う意味なのだろう」

「そうね、変な言い方してしまったわね、私はこの人の傷んだ部分にも殆ど触れずにこうして手をかざしているだけでしょう、だけどお医者ならこの皮膚の下をどうにかするのかもしれない、そう云う意味で言ったの」

「そうなのかい――― でもそのお医者のでは無理なのは分かるんだーーーそれに何より、時無しが君を選んだ、それが全てさ」

ミドラーシュは時無しを見ながら言った、そしてまたマルゴーの方を向くと

「君がそう言うなら分かったよ、でももう少しだけ眠らせてあげて欲しいそうさ、そしたら後で話すそうだよ」

「話すって、誰に」

「この人間にさ」

「誰が」

「時無しがさ――― なあ、それでいいんだね」

ミドラーシュはまた時無しを見て声をかけた。

「待って、眠ってると云っても昏睡なのかもしれないのよ、話すとしても起こして起こせるものじゃないかもしれないの、だから」

耳の奥、目の裏、いや頭の後ろ、何かが触れてくる様な感覚にマルゴーは焦る気持ちがすっと消えそれ以上言うのを止めてしまった、ミドラーシュと云うこの少女と時無しと呼ばれる老夫が今確かに何かの方法で意思を伝え合ったことを理解出来たような気がした、それは聞こえたのではなく彼らの交換したものをまるで共有したかのようであり、その人心地のような感覚がマルゴーを落ち着かせた。

「人間なの、この人」

マルガリータが訊いた

「じゃなかったら何だと云うのさ」

「あなたたちの仲間なのかと思っただけよ、私いけないこと言ったのかしら」

座面に揃えた足をまっすぐ延ばし、まるで椅子に置かれた人形のようなミドラーシュはマルガリータを見つめて言った。

「君たちから見て、僕は何に見える」

「そうね、あなたはまるでお使い様、天使ってとこね、でもおしゃべりは人間そのものよ」

人か人で無いか、何を以って云うのかそんな想像の準備すらないにも関わらず、ただ印象を口にするのに迷いの無いマルガリータはすぐさま答えて、そして立ち上がるとミドラーシュの傍に行き、抱き上げた。

「おいおいマルガ、いい加減にしとけよ」

ビダが慌てて言うと

「あらビダ、絵で見るお使い様ってどれもちょっと怖い感じでしょ、お人形さんみたいなこの子なら妹にしたいくらいよ私、それにお母さんがきっと気に入るわ」

そう言って頬に口付けされてまたそっと椅子に置かれたミドラーシュは明らかに動揺している。

「まったく、お前には誰も適わねえよ」

ビダが首を振りながら弱く笑うと、呆気にとられたルーメンが椅子に戻ったマルガリータの横顔を見てポカンとしている。

まだいつ必要になるとは分からないもののやはり医者の準備だけをしておくことは出来ないかとマルゴーはカウンターにいるビダに問い掛けた、座っている二人は同時に立ち上がって前のめる様だったが、マルゴーは彼らの顔をまともに見ることは出来なかった。

ルーメンは話せる医者に心当たりがあるからとすぐに行こうとしたが、ビダがそれを制止して小さな声で

「そこいらの医者じゃ恐らく腹の児が後回しにされちまう、俺が呼んで来る」

そう言ってマルゴーに何か耳打ちをしてから一人で出て行った。

横たわる女には既に痛みを堪える面持ちも無く、今は恐らく児の生命を保つ為にのみ自分に残されたものを使っているのだろうと、それが母親だけが持つ力なのだろうとマルゴーは女の手を握り思った、生半可なものではない痛苦の間にも児への命の道を閉ざすことなく耐えきったこの女の顔は、やつれてはいても最早勝ち誇ったようにさえ見える程に自若たるものだった。

「どんなにか辛い出来事だったでしょう、死んだ方がましなくらいに、でも貴女は絶対に諦めず守り抜いたのね、貴女はどんな戦士よりも強い人、どんな王様よりも尊い人よ――― なのに、なのに御免なさい――― 私では、あなたに赤ちゃんを抱かせてあげられない――― 」

薄っすらと涙を浮かべながらそう漏らすマルゴーをミドラーシュは少し口の開いたままぼんやり見ていた。

時無しに付いて行くようあの方は言われた、それは赦されたことを意味するのか、或いは自分の変わることが出来た証なのかと自らの都合の意味ばかりで受け取りつつ、更にやはりまだ続く罰となるのではないかと半疑さえもした、しかしもし其処から出られるのであるならば例えどうあろうが、そして此処に来るのが何者であったとしても付いて行ったであろう、言われた通り時無しは現れ、そしてあの方にさえ疑心があったことに胸の内で密かに動転した、時無しの望むことに棹をさすくらいであらねばと気構えるのもそれへのせめてものことである、疑いはけして終わらない、だから後悔もし償おうともする、それが今の自分には精一杯のことである、このメルギトゥールの娘が人間の生活圏で素性を隠していたのは当然であったろうし、自分たちの来訪の及ぼすものが彼女にとってけして都合の良いものである筈がないことも気付かぬ訳でもなかった、どこをどう切っても未だいちいちが拭えない我情にまみれている、これで、こんなことで赦され、あの場所を出る資格など与えられる筈がないことも分かってる、見誤りなど存在し得ない、であれば何故、何故今こうしていられるのか、マルゴーの伏せごとを知ることとなった居合わせる人間は、知って尚マルゴーに変わらず心を込めている、さっき一人出掛けて行った男がマルゴーに耳打ちした言葉も聞こえていた

「何があろうがお前はマルゴーだ、皆で守るから、お前もしっかりしろ」

そしてマルゴー自身は女の身を救えぬことを心底に嘆いている、何故嘆き、何故詫びる、秘密をばらした我らは疎む相手であっても心を砕かれる相手ではない筈である、そうである筈がその様で無いのは何を告げている、此処へ現れてまだ然程でもない内に、ミドラーシュは流れの中の棹はおろか、自分がまるで役を為さない置き石にでもなったかの様な居たたまれない気持ちになった、そしてその無理解の理由こそが自らの洗っても落ちない汚れであるのだろうかと感じ始めていた。

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