癒しの力

赤子のふくよかさの残るような愛くるしい容姿からはまずは少女とすべきところではあるが、性別の確たるとなればまごうこと無きとまでは言えないし、捌けた物言いは少童のさまどころか寧ろ遥か通り過ぎて対等を感じさせるほどに淡々として馴れ馴れしい、しかし椅子にも届き難いほどのその短い体躯は紛れもなく幼く、貴婦人が肘に纏わらせている薄布に似たものをただ右肩から腰にかろうじて巻き付けているだけの姿は、まるで祈祷書の挿絵にあるお使いそのものであった。

「人間が負わせた傷は僕では癒せないんだ、お願いだよ、僕にも請け合った面子もあるし、何せこんなこと頼めるのはもう君しかいないんだから」

髪も髭も長い老夫はお世辞にも偉丈夫とは云えないが、その背にまるで世界でも乗せているかのように身体を横倒しにして動かない大人の女を留めて忽せにしないでいる。

眼前の三者はそれだけならどれも忽ち脅威になる筈もない者たちではあったが、それぞれになのか取り合わせにか、まるでそれは本か鏡の中の世界のような、なにか手出しの叶わない領域を感じさせた。

そしてその風姿以上に、彼らが物陰から出て来たのでもなければまして扉を開けて入って来たのでもないと云えること、詰まりはこの有り得べからざる出現に、テーブルの三人は果たして今自分は見たのか見なかったのかを繰り返し自らに問い直なければならなかった。

椅子の向いていた方向から、奥に入るビダと現れた者達までへと視線を移す距離の最も短い筈のルーメンは、首も捻らずただ眼球だけを戻すその瞬間に視界の右端に何かが実体化する像容が焼き付いていた。

「何、言ってるの、この子」

まずマルガリータが漸くそれだけ言うと、

「今、確かに、何て言えば、確かに――― いやそれより、具合が悪いなら兎に角お医者を呼ばないと」

舌がもつれるほどにルーメンは緊張と昂奮で、立ち上がろうにも足に思う様に力が入らなかった。

「何なのいきなり、そんな恰好で、子供と年寄りがなんの悪ふざけよ」

マルガリータは度の超す局面にも呑まれるでもなく重ねてそう言ったが、何か言葉の届かないようなもどかしさに苛立ちが募るばかりだった。

「僕、呼んで来ます」

ルーメンがそう言ってなりふり構わず這ってでも行こうとすると

「待って、ルーメン」

止めようとして踏み出す脚が縺れてマルゴーもその場に崩れ堕ちると、慌ててマルガリータは床に付いたマルゴーのその手に触れて驚いた、まるで音が聞こえる程に震えていたからである。

「ごめんよメルギトゥール、談笑中だったんだね、ただこちらはお邪魔する時間も何も選べないんだ、それにこっちがもう時間切れなもんでね」

と少女はまた女を指した。

老人は黙ったまま用心深く女を床に横たわらせると、自分も腰を下ろしてから女の半身をそっと抱き起こした。

やにわの受け入れがたい事態に跪いて、マルゴーは卒倒しそうな目眩を感じ乍らも心を整えようと必死に食い縛った、しかし掴むものすら無い大海に放り込まれた様に、すぐ目の前で息を吐く者たちと向き合うにはあまりに支度がなく、そして一寸の余地さえも無かった。

「――― その、その名を、どうして」

マルゴーの太い声が明らかにか細くわなないている。

「どうして知ってるかと訊いているのかい、どうしてって、うーん、誰かから聞かされたんだったっけな、そもそも君は翼人の間でもかなり有名だからね、僕も随分前から知っていたような気もするし、そのどうしてかはちゃんと覚えていないけど、どうしてもその解答が必要なのかい」

「――― いいえ、違う、違うのよ――― その――― まさか、誰かにそう呼ばれるなんて、思ってもみなかったことだから」

尖ったもので撹拌されたように精神が肉体から剥がれようとしている、マルゴーはそれが化身するのを拒絶するかのように意識の淵に手を掛けて屈しまいとした。

それでもその名で呼ばれた瞬間に、彼らが何を目的に現れたかを直感していたのは、かつてそれが母親の元を尋ね来る者たちの一様に望むことであったからで、その都度傷や病を外から癒せる限りにおいては黙って応じる母を何度も見ていた、しかし見ていただけでそれが自分のことと置き換わろう筈がない、まして今のこの状況は余りにも唐突が過ぎマルゴーは犬のように両の手を床に付いたまま恨めしさの滲む目で少女を見返した。

「と云うことは、あれかい、君は、その、名前を伏せていたと云うことなのかい」

その目に気圧されたのか少女は少し勢いを削がれる様に今更声を潜めた、マルゴーもそうしたい程に誰にも聞かせる訳にいかないことではあったが、身体同様に喉も唇も強張り、破裂しそうなほどの鼓動にも邪魔をされ全ての調整が利かなかった。

「―――でも、あなたは、勘違いをしてるーーー それは母のこと、私ではない」

「私じゃないって、君はメルギトゥールなんだろう」

「違うーーー 私は、その名を継いではいないわ」

「継いでない――― じゃあ君は魔法使いではないのかい」

そう口を衝くと少女は慌てて小さな手で小さな口を押えた、最も口にしてほしくない言葉を言い放たれてマルゴーは強く目を瞑り、それは顔中を顰めるような表情にした、横にいるマルガリータらがどう聞いたかを確かめるのも恐ろしく、そちらを向くことも出来なかった、そして目の前のものは最早頬かむりの通用する相手ではないと自分に言い聞かせた。

「―――――― そうよ――― 私には何の力もない」

麻痺したような唇で、辛うじてマルゴーはそれだけ零すように返した。

「そんな筈はないよ、時無しが行き先を間違う筈がない、継いでいないとは、継ぐべき立場なのに継がなかったと云うことなのかな、なら、君はあの人の娘なのかい」

それが母親のことであるのは違いなかったが、マルゴーはすぐには返事ができなかった。

「そうなんだね、ならたとえ名を継いでいなくても生まれ持った力はあるんじゃないのかい」

少女は見通したような落ち着いた物言いで透き通る眼差しをマルゴーに向けると老人の方へ振り返った。

「なあ、母親の方じゃなくこっちへ来たのには何か意味があるのかい」

老人は懐の女から少し顔を上げたが、顔半分にかかる髪で視線も表情も分からず何かを答えたようにも見えなかった。

「なら分かって来たんだね、でもやはり母親の方へ行くべきだったんじゃないのかい」

少女が老人にそう問い直すのを聞いてマルゴーは

「お母さんはもういないのよ」

「それは問題じゃないんだ、まあいいさ、時無しは君に会いたかったようだからね」

「私に、何故なの、何故私に、私にあるのは、小さな、本当に小さな動物に施せるくらいのものなのよ、それだってもう長いこと使っていないわ」

「やっぱりあるんじゃないか、ならきっと出来るよ、力は大きさじゃない、有るかどうかなんだ」

少女は訳知った様にも哀願する様にも聞こえる抑えた声で言った。

こんな日が来ると予想していなかった訳ではない、それどころか一人になって得体の知れぬ恐怖を常に感じながら生きていた、しかしその恐怖に重なる余りの寂しさに耐えきれず山を越えて森を抜けて来たのだった、そうして幸運にも最初に巡り合った者達に救われ、自分もこれで人の世界で生きて行けるのかもしれないと、僅かづつではあるが隠すと云うより忘れていられる日々が訪れていた、しかしそれももう終わろうとしている、マルゴーはそう考えずにはいられなかった。

「――― 分かったわ、看るだけは看てみるから」

立ち上がろうとするマルゴーを支えた時、震えが手だけでは無かったことを知ったマルガリータは、もう一度マルゴーを座らせ抱きしめたまま背中を優しく撫でながら耳元で囁いた。

「こんなの何でもないわ、大丈夫よ傍にいるから、必ず一緒に乗り越えられるから」

見たことや聞いたことで把握しようとしてもとても現実としての受け入れそのものがし難いながら、只々マルゴーを案ずる気持ちだけがマルガリータを揺るがすどころか正気付かせていた、そしてその言葉はうなだれるマルゴーを貫いた。

漸く立ち上がったルーメンにも手伝われ、マルガリータには頷くだけで、マルゴーは横たわる女の前に腰を下ろした。

「どうして、こんな」

女が身に着けている布をはぐるとマルゴーは自分の口を鷲掴むように押えた。

「拷問さ、石に敷かれたんだよ、人間が昔からよくやる手さ、でもまだ腐っちゃいないだろう」

少女は見慣れた出来事のように然程でもなく言う。

「なんて酷いことを、これでよくお腹の子が――― 駄目よ、とても無理だわ」

「君の仲間がもっと酷いのを癒すのを見たことがあるよ、君たちには自分でも知らないような力がある筈だから出来るさ」

少女のその悪びれない言葉は追い詰められた気持ちのマルゴーを苛立たせた。

「勝手なこと言わないで、仲間なんていないわ、何も知らないくせに――― 」

突然感情を露わにされて、少女は口を噤んで唯一身に着けている布の端を摘んだ。

経験が無いからではなく、少女の言うように潜在するものが仮にあるのだとしても感覚的にそれが今の自分の持つ力の到底及ぶもので無いことをマルゴーは知っていた、しかし恐らく産み月の過ぎている女を、時折呻くような声を漏らす瀕死のこの女をこのまま放っておくことも出来ない、一刻も早く自分なんかより医者に見せるべきであることは明らかであったが、それでもどうこう出来るものではないだろう、それに現れた者達の意思が何も無知からのことではないのもまた分かるような気がした、どこまで出来るのかは分からないが深く息を吸うとマルゴーは女の膝から腿の辺りと、それから腹に掌をそっと乗せた。

それを見ると少女は安心したように微笑んで傍の椅子に前から上がって向き直ると腰を下ろした。

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