落下する夢

銅版画へ誘い入れた地主がある時祷書の話しを持って来たことは、変転をあるいは巻き戻させる最後の機会であったかもしれない。

貴族ならどの家でもと云う訳では無く、寧ろ限られた名家がしかも何代かに一度だけ作る、誇りある家系の祈りの心組みとなるようなその一冊は、依頼主である公爵の意向により百に及ぶ銅版画の所載によって飾り尽くされる、顔料絵具で彩るような華やかなものに対して、単彩の絵で綴るようなそれは、蛇足ともなる虚飾を排して崇める威厳をのみ際立たせるものでなくてはならない、その聞きしに勝る深甚は通常なら内容に比例する人数に分けられて当然の仕事ではあるが、連続する物語とそれを損なうことなく魅せ続けねばならない絵、しかも銅版画であることから、ラティオは五年の猶予で独りで遣り遂げる請負として、それを境に正気を取り戻したか或いは狂人と化したかのように工房に籠った。

祈り、導き、救済、奇跡と図案に求められるものは只ひたすら信実なる美であり、没入すればするほどに一枚の構図から彫りに費やす時間は限度を知らず、食も眠りも忘れさせることにはなったが、たとえそれが何かを失う代償を伴うことになろうが、寧ろ何かを捧げねば成し遂げられないつもりで臨んでいたのは何の為であったか、地主の話しでは数多の諸侯の中でこの公爵家が王家に最も近い一族であること、因ってこの祈祷集が仕上がったあかつきには君主の手元に届くことになるのは間違いないことであり、それはいくら表現者として寵児となろうが俄かには叶えられない謁見と云うものを約束されたも同然の話しであったことの為か、それとも真にその創作の崇高に対する心の姿であったか知れないが、そのまるで流れの先の飛瀑に突き進む舟の如き姿は誰の眼にも落下を回避できるものであるとは思わせられなかった。

そしてまるで自らに罰を与えるかのような時間が過ぎ遂に仕上げられた銅版画の全てが公爵本人によって目通しされ、得心の上、子牛の革でガードルブックに綴じられたのは依頼を受けてからおおよそ十年の後であった、仰望の末の家門での祈祷文編纂、とりわけ、挿絵と言うには本文を差し置くほど紙面に大きく占める膨大な数の精緻な銅板画が自慢のそれを、公爵は縁続きから同朋まで配り渡り、特別に金細工と宝石をあしらった造本の一冊を国王に献上した。

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