第四節 母と子

人ではないが獣でもなければ魔物でもない、動物を食らうでもなく、人など襲うどころか見ればそっと隠れるほどで、自分が何者なのかを知っているとすれば、それは気が付けば其処に居た大きな洞を持つ楠の大木であって、この洞から生まれてきたのだと精霊が囁くのを、梢の擦れる音でも聞くようにじっと耳を澄ませていた。

世界は朝と思えば朝、夜と思えば夜であったし、その頃森には全ての想像を受け入れる深淵があった、ある日その根本まで行こうと思い、思った時にはもう着いていて、其処には何も無く、つまらないと思えばすぐに消えてしまった、自分の意味を知るもののところに行こうと思えば行けるかと考えたが、精霊の言う通り目を開ければやはり洞の中であった、森と同化するように彷徨い、落ちた実が芽吹き大樹となり、やがて朽ちた骸から更に萌え出た双葉が洞を持つまでになったある日、覗き込み話し掛ける者がいた、その声は風や樹々の音とやはり同じだったが、ただ自分の映るその者の眼を見ていた、人には悪意に満ちていると忌み嫌われた森でその者は服を着せ、そして靴も履かせると付いて来るよう手招きした、止める精霊の声にも耳を貸さず初めて森を離れ小さな灯りのともる部屋で眠った、精霊に時無しと呼ばれたものはその家で暮らし始めた。

ラティオと云う金工職人と妻ルシヲラの二人が暮らす古い小さなその田舎家は、小刻みに囁くような金属音がいつも聞こえる家だった、華奢な金槌で細い鏨の尻をまるで触れるほどに叩くその音色は、時無しが自らがこの世界に生きていることを知らせる時の刻まれているのを始めて聞くように思える音だった。

ルシヲラは初め、言葉を知らないだけで口が利けない訳ではないと思い教えようとしたが、時無しには聞こえているようでもあったがまるで興味を示さなかった、叶うなら名前も付けて呼んでみたい気持ちも強くあったが、無理をせずいつかこの子の方から何か意思を示すようになってからでよいと、それからゆっくりすればよいと思い直した。

見た目には家族の様になりはしても時々ふっと時無しは居なくなった、慌てて探すと元の森に帰っていて、迎えに行っては家に戻リ、それを何度か繰り返す内に戻った時には必ずいつもラティオの叩く金槌の音に家のどこに居ても耳を澄ませているのをルシヲラは気付いた、そのことがこの子にとっての言葉に繋がるように直感したのは、まさに苦難を抱える我が子と何としてでも意思のやり取りをしたいと願う母親そのものとなっていたということであろう、けして容易いことではないと云えども、まるで手懸りが無いかのように感情らしきものを表さない子の行く末だけを想うものと化した者に辿り着けない道など無いが如く、いつしか二人には二人の間でのみ通わせ得る、無縁の者には道理の及ばぬものが成立することとなる、それは最初、野雁が卵膜を破って出て来ようとする雛にこの世で初めて聞かせる親の声として小さく舌を鳴らす合図の如きものだったが、やがて母は子をミコと呼び、子は母をデアと呼ぶに及んだ、それはその頃の時無しが発音できる音階のほぼ全てだった。

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