軍帽の男
――― 物見はなかった、あの部屋の様子は知られていない筈じゃ。
――― 軍などと、シレークスが差し向けたのでしょうか。
――― 彼奴の事じゃ、通じておってもおかしくはなかろうが、策動を任せきりにするのは流儀ではない、しかし後方にでも居りそうなものじゃが此処から海までの間には気配は感じぬ、この動きそのものは完全に人のみによるものじゃ。
外へ出るととっぷりと暮れた春の夜空で上弦に欠けた半月が薄い雲に纏わりつかれていた、兵士たちのやって来る反対方向に坂道を上がりながら、前の川音に混じって重い革底靴の足並みらしき単調な音が遠く微かに暗闇の中に混じるようだった。
「やっぱり置いて行けねえ、サッサ、後は頼んだぞ」
そう言って布包みを渡すとウォルンタスは踵を返して戻ろうとした、アハバがその背中に
「ウォル、無茶すんじゃないよ、あんた丸腰なんだから」
それには答えず走り去るウォルンタスを立ち止まって見ているアハバにサッサが
「心配いらねえ、あいつは戦場でも大抵は素手だ」
「素手、戦争なのに、サッサそれはなんかの間違いでしょ」
兵士らより先に店に戻ると、カリタスはいつもと変わらぬ佇まいで丸太を縦に切っただけのテーブルを拭いていた、のっそりと入って来たウォルンタスを見ても然程に驚きもせず「馬鹿な奴だ」と一言だけ言った。
「馬鹿とはなんだよ、おい、酒出せや」
ウォルンタスが店の真ん中に陣取ってカップを上げた頃に、揃った重たい靴音が店先に到着した、まだ灯りのついた店を前に声も漏らさず暫く動かずにいるようだったがやがて木戸が引かれて入って来たのは一人だけで、戸はまた閉まり、男は戸口に立ったまま目深に被った軍帽のつば越しに二人をじっと見るようだった、黒っぽいギャバジン地の上下の制服を着て、編み上げ靴を履いた男は軍帽を左手で脱いだ。
「おいおい、ティムじゃねえか」
「ウォル、やはり居たんだね」
「おめえ、軍になんかいたのかよ」
ウォルンタスの少し咎めるような物言いには薄い笑みだけで答え、男はゆっくりと店の奥に進み出た。
「お久しぶりです、少し、痩せられましたかね、お父さん」
撫でつけた髪と深く感じる顔の彫り、たった六年の歳月は未熟の若者を完全に成熟させているように映った。
「――― オステュウム――― 」
まるで予想だにしない、まさに発現とも云える息子の帰宅にカリタスは一歩たりとも寄れずにやっとその名前だけを口にした、言って直ぐに六年前のことに思いが巡り息子の右手に眼をやった、視線に気づいた男はそちらだけ白い手袋をした右手の肘を折り曲げて目の高さまで上げると、その手をじっと見てまた下ろした。
「いつからなんだ、いつ入った」
汚れ一つない真っ新の軍服と、少し履き古してはいるが磨き込まれた靴を見ながら、今度は子供に訊くようにウォルンタスは言った。
「あの後少ししてさ」
その右手にはすぐに気付いたが、様子までは分からずウォルンタスは重ねて
「どうも歩兵じゃなさそうだな、装備品の調達でもしてんのか」
「これじゃマスケットは構えられないからね、戦う兵士としては使い物にはならないから、まあだからこそ必死に学んで作戦担当見習いくらいにはなれたのかもしれないがね」
そう言って男はまた白い手を少し上げた。
「構えられないだと、そりゃなんでだ」
意味を解し切れずにウォルンタスは当然のように訊き返した。
「なんだ、知らないのか」
そう鼻白むように言うと、男はまた右の腕を不自然な程にゆっくりと肘から曲げると口で手袋を噛んで引き外した、白い綿布の下から鈍く重たい色のものが出た、それはまるで青銅の造りものの様だった。
「危うく命まで落とすところだったのを軍の医務に救われて、これも繋いではもらったけれど勿論指一本として動かない、でも腐りもせずになんとかここに留まってはくれている」
自嘲のような薄笑いを浮かべて、改めてその皮膚が黒く変色した自分の右手を廻し見た。
「自分のものながら、やはり余り気持ちの良いものではありませんね、この手のおかげで大変な苦労をさせられましたよ、お父さん」
下を向いた儘のカリタスに男は射るような目を向けた、ウォルンタスはまさかとは思ったし事情の程も分からなかったが、二人の様子から罷り間違っても在り得ない出来事を連想せずにいられなかった、それでも
「戦争で手や足を失う奴はいくらでもいる、おめえの親父は片目を失った、それを親父の所為みたいに言うんじゃねえ」
そう諭すようにウォルンタスは言った。
「戦場で失ったんじゃないさ、失ったのは此処でだよ、ウォル」
「此処でだと」
「そうさ、此処の二階で、しかもお父さんにさ」
「なんてこと言いやがる」
「本当だ――― ウォル、私がやった」
男はウォルンタスに顔を向けると片方の眉を吊り上げてみせた、そして左に持った軍帽を傍の机に置き、その手で足元に落ちている手袋を右手に嵌め直すと気持ちを入れ直すように胸を張った。
「わざわざこんな時間に伺ったのは何も手の具合をお知らせする為ではありません、酔いどれが一人も居ないであろう頃を見計らった心算ではありましたが、まあ他人とも言えないウォルなら仕方ないでしょう、お父さん、お分かりの筈です、私が引き継ぐべきものを渡してください」
引き継ぐべきもの、オステュウムが何の事を言うのかが今の今であるからこそウォルンタスには一つしか浮かばなかった、ただ出奔して以来初めて生存証明のように姿を見せたのが、何故モリが現れたこの日でそのものの秘密を知ったこの時であるのか、まして徒党を組んで暗にそれを盾に引き渡しを迫っているのかも合点がいかなかった、それに本当にカリタスが息子の右手を落としたのであるなら、およそ自分がまだ知らないこの親子の間のことに割って入れない防塁を盛られたようにも感じた。
「もう、此処には無い」
カリタスはオステュウムの方を向かずにそう呟くように言った。
「無い、はて、私が居ない間に冗談を覚えたんですか、お父さん、私はこの家を離脱した身ではありますが、あなたにはそのくらい注文させて頂いてもいい身の筈です、失礼させて頂きます」
そう言うと一人で二階に上がって行った、堅い靴底が上の部屋を歩き回る音が聞こえやがてゆっくりと降りて来た。
「どうも一足先に誰かが来たようですね、特別な何者かが、奪われたのではなく自ら渡した、木枠だけが丁寧に三つ重ねて机にありました――― お父さん、あれは誰かに呉れてやって良いものでは無くこの家の血を引く者が引き継ぐべきものであった筈です」
「ならば――― ならば、もうお前ではない筈だ」
カリタスの腹を括ったようなその語気がウォルンタスの気を戻した。
「ティムよ、他人と言えないとは嬉しかったぜ、物言いの少し他人行儀なのは気になるが、俺もおめえのことはいまだ同じように思ってるし、これからも決してそれは変わらねえ、けどおめえら親子に何があったかは別にして一度は出てったんだ、なら此処にはおめえのものはもう何もありゃしねえぜ」
「――― そうですか、やっぱりあなたも一枚噛んでるんですね」
オステュウムは机に置いた儘にしていた軍帽を取るとまた目深に被り、元の木戸を背にする位置に立ち直した。
「私は戦場でのウォルを一度も見たことなどありませんが、あなたが軍でこう呼ばれていることだけは知っている、矢を掴む男と」
「そりゃ唯の体のいい話だ、それに引退してもういい歳だしよ、おいおいまさかそんな与太話しを警戒してあんなに引き連れて来たんじゃねえだろうな」
椅子に反っくり返ってカップの尻を上げながら、ウォルンタスは立てた親指を外の方へ向けた。
幼い頃から父親よりも遊ぶ相手をしてくれていたこの陽気な男、酒場での揉めごとで殴られることはあっても殴り返すことなど見たことのないこの父親と同じ歳の男が、軍が未だに形勢の芳しくない戦場を選んでは駆り出しているのを知っている、一体どれほどの力量を買われているのかは分からないが、いずれにせよ矢ではなく銃火器の飛び交う今の戦場で一人の兵士がいくら暴れた所で出来ることなどたかが知れている筈である、それに上層部の誰がこの男を使い、どう指図しているのかも分からないが、勝った戦のその日のその時には前衛の先遣に必ずこの男がいたと云うのを伝説の様に聞いていた、オステュウムは左の手で手袋の上から擦りながら言った。
「勿論そうさ、あれの為にここまでする父でもあるが、今夜の備えは何を隠そうあなたを想定してのこと、これでも作戦に関しては少しは軍に貢献している心算なんだよ」
「そうかい、それじゃあこの古株相手にその作戦てのを見せてみるか」
「それはウォル、あなた次第さ、と言ってもどうも大人しくして貰えなさそうな気がして来たよ」
オステュウムが左手で木戸を小突くと、直ぐにマスケットを目の高さに構えた兵士五人が入って来た、武器を持たない中年男二人に厳重過ぎる包囲だが、ウォルンタスの目にはまだ実践経験の少ない、飛び道具頼りの素人にしか見えなかった、しかし命中精度は低いとは云えマスケットもこれだけの至近でしかももし散弾でも装填されていれば厄介ではある、
「おいおい、そりゃ雷管式か、ティムよこの作戦にゃ品てもんが無えな、こんな狭めえ所で五丁も構えやがって、うっかり暴発しましたは勘弁してくれよ、若いおめえらとは違ってこちとら怪我もぼちぼち治りが遅せえんだからよ」
モリの話しでは十人余り、あとは表に三人、裏側に三人と云うところか、どうせ皆持つものは持ってるだろうから隻眼のカリタスを無傷で突破させるにはまずこの五人を殺る必要がある、しかしオステュウムは勿論のこと同胞とも云える者の命は偶さかにも取るわけにはいかない。
その時まず裏手で低い衝撃音がして、表側の者らがそちらへ走って行く様だったが、激しく争うほんの短い気配の後でゆっくりと誰かが一人表に回るのが分かり木戸が突然開いた、店の中のマスケットが一斉にそちらへ向きを変えた瞬間、五人共がこちらへ振り向き直す間も無く倒れ、最後にウォルンタスはオステュウムの脇腹に一つ拳を入れた。
テーブルの上で空のカップがまだくるくる回っている、開いたままの木戸から店の中にサッサが入って来ると、倒れている者の中にオステュウムを見付け何も言わずウォルンタスの顔を見た、ウォルンタスはカリタスを見、カリタスは少しのあいだその気を失っている顔を見ていたが、二人を待たせて二階に上がると古い椅子を背中に括り付けて下りてきた、そして「行こう」とだけ言った。
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