与えられた四百年
気が付けば見えるヴェールがそれぞれ薄まるようなのが心細く、エピファニーは聞こえる言葉よりそれらから気を逸らすように机に置かれた銅板の中の文字を見ていた、文字の名前が時無しなる者と同一であるかどうかまでは感じる訳ではないが、ただモリがそう口にした時の姿をモリ自身の意思を越えて真実を告げている者として目にはしていた。
目を閉じてもカリタスやウォルンタスらに掛かるものは瞼の裏にさえ現れ、覚える奥底の何かが動く感覚を押しとどめる様に結んだ唇はやがて開いて、まるでそれを自ら吐き出すようになった。
「探してる」
咳き込んだ様に短く喋ったエピファニーにアハバは驚いた。
「何て、今何て言ったの、エピ、お願い、もう一度言って」
両手で包んでいたエピの前にしゃがんで回るとアハバはいつもならけしてしない、エピファニーの目を見詰めながら乞うように言った。
「探してる、と言ったのか、エピ」
集まった人前で口を開いたことにウォルンタスも目を見張りそう言うと、モリの方を見た。
「誰のことだね、誰が何を探していると云うのだね、エイナイのことか、彼らが何かを探していると言うのかね、エピファニー」
少女のほんの小さな言葉を訝るどころか、まるで暗闇に一瞬差した光の如くモリはその意味するところを手繰り寄せるようにした。
――― 何を探していると云うのでしょう。
――― 分からぬ、分からぬが、ともすればそれがエイナイの此処に在ることの理由の一つと捉えてもよいのやもしれぬ、いや、もしそれが為に在るのだとするならば、懸念の一端は取越しとなってくれるのだが――― エイナイが地上で探し求めるものなど想像も付かぬ、しかしそれが彫られた名の持ち主と云うのなら在り得ぬこととは云えぬでもない、名を残すなどあってはならぬことだからのう
――― ではやはりこの銅板をでありましょうか
――― いや、その意思有る者にいつ奪われていてもおかしくない筈の此処にずっとあり続けたのだ、それが却って不自然にさえ感じる程にな
――― 少なくともカリタスやその父親には奪いに来る者があるなど予想に無かったでありましょう。
――― 四百年を迎えた今になって奪おうとするものが現れた、我らはあの精霊殺しの新たな動きをノームの噂で知り此処に来たのだ、それぞれが引き寄せられるようにな、シレークスがかつてエイナイに会うておるなら、その与えられたやもしれん四百年のことを知った上でのことと見て間違いないであろう、奪うと云うよりまるで預けたものを返してもらいに来たかのようじゃ
――― 探すまでもないと云うこと
――― そうじゃ
――― ではこれではない
――― とすれば、属するものの方であろう
――― 属する
――― 呼び水じゃ
――― 鍵、やはりあるのでしょうか
――― 術をかけた者がこの三枚を持つのであれば必要はない、持たぬ者が持つ者の為にかけたのなら用意したやもしれん。
――― 持たぬ者とは
――― 要するに持ち主ではない、単に術だけに関わっただけかもしれぬ者と云うこと
――― 持ち主とはやはりこの銅板を彫りし者のことでありましょうか
――― もしそうであるならこの隻眼のものの手にそれもある筈と云うことにはなるがな
――― まだそれは口に出来ていないのでしょうか、しかし持ち主でない者が何故に術を仕込むことになったのでしょう、はたして誰が必要としたのか
――― 分からぬ、企みならば幾方向かは考えられるが、かけた者が必要としたなら鍵などあるまい
――― そこにどうエイナイが関わると云うのでありましょうか
――― それも分からぬが、持ち主と術者とエイナイ、少なくともこの三人が何らかの意思を働かせた結果が此処に在るこの銅板なのだろう、もし鍵があるなら、我らもそれを追えば会えるやもしれん
――― エイナイがそのような意思を持つ者とは思えませぬ
――― この者が言う個性と云うものがもし芽生えたのなら無いとは云えぬ、しかしそれにしても
――― 如何されました
――― 人とはこの様なものであったかとな
――― ツェフェク様、この野獣の如き人間にご興味を持たれましたか
――― 其方との旅で様々な人の暮らしなどを見ては来たが、こちらも気付かぬようなこちら側の在り方まで言い述べた者などこれまでなかったであろう
――― 確かに
――― この者、野獣ではあろうが、細やかなる羽ばたきのハチドリの様でもある
――― なるほど、このウォルンタスと云う者、余程に人間臭くもあれば、またらしくもない程に恐れを知らぬ者、思いのほか使えるやもしれません
エイナイが探すとするならば、それが銅板であるならただ待っていさえすれば此処に現れるかもしれぬと云うことにはなる、されど鍵と云うことなら、まずそれは何なのか、そして何処にあるのかと云うことになり、もはやエイナイの地上にある意味を知るのかもしれないシレークスの関わりと共に、否が応にもモリの心を焚きつけた。
「その名が本当にここにあるとして、それは何故かと云うことだ、隠し文字の技を使える者は限られておるのであろう、この四百年の間のいずれかにカリタスに至る先人の中の誰かが、その名を誰かから聞いて彫り入れたのか、聞いて知ったとすれば教えたのは誰であったのか、そして、エイナイ本人に会ったのかと云うことだ」
「やっぱりそれが大事なことなのね」
「それ次第でさっきの話をまた最初からせねばならん」
「どう云うこと」
「居るならば、それは置かれたのであり、つまりは洞見に入ったことを意味する」
「どうけんって、それはさっきの価値の在る無いの話しの続きなの」
「在るならば見極めの必要などない」
「見極めてる、それは価値が無いってことを、そのことを此処に来てまで確認してるってことなの――――――」
「そうだ」
行き渡るアハバの想像は既に地の果てまで辿り着いている、しかしその絶する景色はすぐに搔き消され、まるで何も分かりたくない子供のような言葉となった。
「――― 確認したからどうだと云うの」
アハバのそれを見越しているモリは答えずに長いあご髭を掴むように撫でた。
「でも、 でもよ、この銅板は四百年前のものなんでしょ、ここにそのエイナイさんの名前を彫ったのも同じ頃かもしれないってことなのよね、そんな昔に来ていてもし会ったんだとしたら、いくらなんだってそんな前から今になるまで見極めし続けてるなんておかしくない、そんなのもうとっくに済んでるんじゃないの、だから私たちまだこうして」
「エイナイはな全員同じ役目を負うてはいる、しかしその全員が同時に何処かにいるのではない、恐らくは一人づつが順番に一定の期間を受け持つ様に存在を現す、その期間が四百年なのだ、つまりその一人が名を彫り入れたその頃には降りていたとして、この銅版が彫られておよそ四百年経つのであれば、即ち洞見し終わる時が迫っているのかもしれんし、或いは其方の言うように既に済んでいるのかもしれんと云うことになる」
「ちょっと待って、四百年って――― エイナイさんはたった一人でこの世界の何処かにいて、四百年もの間見続けて来たって云うの――― 任せられるって、そんなに長い時間のことだったの」
「時間の長さは問題ではない」
「問題無い訳ないじゃない、独りなのよ、独りの辛さがモリには分からないの――― 御免なさい、そんな訳ないわよね、でも、姿や形は知らないけれど、もし、もしこの世界に仮にお友達が出来たとしても、それでもいつか皆先に居なくなってまた独りになるのよ、そんなの、そんなの耐えられない――― 」
事の要点よりアハバはそのことで気持ちが沸騰してしまっている。
「姫様、どうかお気をお鎮めください、モリ殿、ではこの銅板が彫られた時期とエイナイ殿が降りたのが重なっていると云うことでござりますな、そして今此の時がその見極めの満了かもしれぬと云うこと、しかし、それにしてもその四百と云う数字、偶然にそこまで重なるものでありましょうや」
アハバを気遣ってフェーヌムが話を戻した。
「勿論偶然ばかりではない」
「なら、どいつかが謀ったってことかよ」
「はかりごとにその年数が相応しいかどうかは知らぬが、意思を持たぬ筈と思われておるエイナイが或いは人とめぐり逢ってそれを芽生えさせたとするなら、そこまでは偶然であったとしても、そこから先には何者かの存念、或いは恩讐があるのやもしれぬ」
「ではやはり重なることが避けられない仕組まれたような運命があったと云うことでござるな、それはいったい」
「関わる者を最小に考えれば二つしかない、ひとつは銅板を彫った者がエイナイと何らかの縁を持ってその名を入れた、これが有力であろうがな」
「もうひとつとはなんなの」
「考え難いが、エイナイが自分で自分の名を入れた」
「何の為にとは訊きませぬが確かに聞き及ぶエイナイ殿には映りませぬな、然るにこんな見当も、事が済んでさえいてくれたら」
そう呟いてフェーヌムはアハバを心配そうに見た。
「爺さん、済んだのか済んでねえのか分からねえのかよ」
「それは分からん、それに済んだとしてもそれは一人のエイナイの期間が済んだと云うことにしか過ぎんのかもしれん、だから本当の意味で免れたと言えるかどうかは別なのだ、先の者が帰ったとしても次の者に引き継がれているのであれば洞見は続いていると云うことになる、しかし刻下の問題は済んでいない場合の方だ」
「もしまだ終わってなかったら、この銅板の名のエイナイさんはまだ何処かにいるわけなのね」
アハバが話に追いつくように息を整えて言った。
「そうだ、そう云うことになる、エピファニーの言う、探しているのがそのエイナイで、探している物がこの銅板ならばいずれ現れると云うこともあるやもしれんが」
モリは目を伏せているカリタスを見ながら言った。
何をどう考えればよいのか誰にも分からなかった、何処にいるかも分からない者が一人で今も世界を見ているとして、人間の日々の行い、醜い争いの数々をどう云う思いで見続けて来たと云うのであろうか、良い行いと悪い行いの全てを天秤に掛ければ人は果たして良い方へ傾く生涯を送れているのであろうか、せめての事ながら皆思いを馳せるところは同じで、また良い方だと言い切れる者などいないのも同じであった、そして続けるか終わらせるかの判断を下す為の任を負う者への哀れみさえ感ずるのもまた同じと云えた。
「俄かには信じ難い話しではあるが信じねばならんのでござろうな、なあにきっと済んでるに違いない、だからまだ四百年は大丈夫と云う訳でござるよ」
「それを一時の慰めとするか、自らに向き合う時とするかだがな」
重い空気を察してわざと軽口を利いたフェーヌムであったが、暮れ果てた様な行く先には遠雷ほどにも響かなかった。
カリタスの様子が気になるエピファニーは、アハバに強く抱きしめられながらただ悲しい気持ちでいた。
「――― もし、引き継がれていたら、次のエイナイさんがまたこれから四百年見ると云うことになるのね――― 私たち人間は、新たにそれだけの機会を与えられたと云うことなの――― 」
「四百年と云う区切りと、裁定の時をどれほど重ねておられるのかなど我々には分からぬ、言うようにエイナイはただ見るだけなのだ、また四百年見て、それを全てご覧になった上で裁きを下されるのかどうかなど、そのご意思の見通しなど予測するものではない、唯始まった限りにおいてはもし引き継がれたなら次のエイナイはまた見続けるだけだ、それが使命なのだ、そしてご意思が下されるのは四百年後かもしれんし今日かもしれんと云うことだ」
アハバの力無い言葉にモリは噛み締める様にゆっくりと答えた、アハバはまた悲しい顔になった、それは世界が終わることより、まださっきの耐えがたい心情に戻るような風情であった。
「――― たった一人でこんな世界に降りて来て、私たちを見ていたのね――― きっとエイナイさんには目を覆うようなことばかりだったでしょう、私たちが褒めて貰えることなんて何一つ在りはしないわ、モリが言う様に私たちの罪は何も変わらない、償いもせずいつもただ欲しがるだけ、それに目を逸らさずにいなければならない使命は辛いなんてものじゃなかった筈よ――― ウォルの言う通りね、十二人の中にどころかきっと全員が苦しんで来たでしょう、そしてモリがすべてを無くしたと云う時無しさんとだぶらせるのが今なら分かる――― 」
とめどない涙がアハバの頬をつたい、その雫がエピの顔に落ちて流れた。
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