尊厳の行方

「なるほどよく分かった、それほど優れた者でありながら末裔にさえ名を残すことも叶わなかったとするなら、また追善の意味もあったのやもしれん、それにお主たち二人の御父上の矜持とも云えるこの品を今我々は手にさせてもらっておるのであろう、疎かには出来ぬ」

そう言ってモリは一枚を両の手で押し頂く様にして目を閉じた。

「――― それで、これを見せたい理由の真なるところとはなんだね」

それをそっと机に置くと、モリはカリタスに静かに尋ねた。

「なんだねって、それを今聞いたんじゃねえのかよ、今度はその部分の説明でもしろってのか」

ウォルンタスは上げようとしたカップを止めたまま言った。

「それはそれで知らねばならん、しかしそれだけではない筈だがの、何かは分からんが例えばそれに纏わる出来事と言うべきかな」

今度は揉み立てる様な目をカリタスに向けた。

「この上まだ何かあるってのかよ、おいカリタス、そうなのか」

「お主、シレークスに会うてどうであった、奴も昔程に情念を丸出しにはしとらんだろうが、それでも同じ人とは思えぬような根まで枯らす淀んだものを感じたであろう――― 彼奴はな、人には生まれたのだ、しかし訳あって属性の離合を繰り返し、いつしか別のものになってしもうた、奴の一生も魔女に命を救われたところまではまだ良かったのだがな」

「おいおい背徳の次は魔女かよ、この話し本気で付き合ってて大丈夫なんだろうな」

ウォルンタスの少し酔いの回り始めたような声は皆の気持ちを多少なりとも言い表してはいる。

「別のものって、それはまさか、人ではなくなったとでも云うの」

アハバが訊き難そうにそっと問い掛けた。

「人と人でないものとの違いは難しい、なにも腕や脚が四本あると云うわけではないからのう、しかし人が人である所以は簡単であろう」

「さすればひとつしかござらん」

フェーヌムが無論とばかりに応じると、ウォルンタスがすぐに

「何だよそりゃあ、言ってみろや守護の旦那よ」

「こころでござるよ」

「ハイハイ、案外真面なこと云えるのねアッパー様は、誰かと違って」

瞳孔と虹彩の境の無いようなアハバの黒い両目が混じり気の無い白に押されて端に寄っている。

「心が、無いってのかよ、そいつは」

茶化すところをその言葉にはウォルンタスも感じさせられるようだった。

「こころか、或いはそうかものう」

「違うの、モリには別の訳があるの」

アハバが勘良く促した。

「心の有る無しを差し置いてと云う訳ではないがな、それに簡単だと表したのも少し違ったかもしれんが、人が人である根拠は自らがそう意識出来ておるかどうかだと私は思う、人ではないものに、人としての尊厳などないようにな」

「尊厳――― では、シレークスは、最早そうでは無いとの認識も自らしていると云うことでしょうか」

本人に会っているからこそ、記憶にその印象を手繰るようにカリタスが言った。

「その体面を保つものが騎士の云うこころなのであるなら、もはやそんな意識すらも無いやもしれん、私は彼奴が確かにまだ人であった頃を知っておる、その時のこころもな、そしてそのあとそれが消えたのも知っておる、よいかね、ただ曰くのある古いものを狙う骨董趣味など奴にはない、それに此処に来たと云うことはそれを譲り受ける交渉をしに来たのでもない、奪いに来たと云うことなのだ、彼奴が何を目的に欲しがるのかはまだ分からんが、お主の話次第では想像くらいは付くやもしれん」

「じゃあなんであの時に奪わなかったんだよ、その話からするとへっぴり腰の年寄りが一人で来てさすがに手が出せなかったってわけじゃあなさそうだな」

理解を進めたように、しかしその理由までは見当も付かないかのようにウォルンタスが訊くと

「おそらくはこの子だ」

モリはエピファニーを見た。

思ってもみない、とても結びつかない答えを提示され、皆モリとエピファニーを見比べた、そして名を出された本人はその小さな身をより硬くした。

「おいおいなんだよその答え、そんなこと勝手に言うなよ爺さん」

エピファニーの肩が窄んだのを見逃さずウォルンタスが即座に反応した。

「根拠はな、言葉で説明出来る根拠はない、しかし理由としてほぼ間違いあるまい」

モリのその静謐な物言いがカリタスには勝手な言い分とは聞こえなかった。

「奪えなかった理由がこの子だとするなら、この子の何を恐れたと云うのでしょう」

「カリタスお前まで何言いやがる、エピの前でそんな言い方すんじゃねえ」

酔いなど吹き飛ばすような怒りを纏った強い語気でウォルンタスが言った。

隻眼のカリタスは普段はそうではなくとも、何かを集中して見ること、何かを強く思うことのある時は残った左眼の瞼を心持ち上げる、そう口にした時の目は見開くどころかしかめた時の様に小さくなっていた。

「皆それぞれ好むと好まざるとに関わらず生まれ乍らに備わったものがある、この子のそれが彼奴には手出しの叶わぬものだったのであろう」

すぐさま腹に収められることではないにせよ、それに訝る者など誰もいないほどにモリのその理由はカリタスもウォルンタスをも黙らせた。

「じゃあ、もう来ないってこと」

たとえ意識されるだけでもエピファニーには負担になることを知っているアハバは、名を使わずに訊いた。

「諦めの悪いのもまた間違いないことでな、それならそれで他の手を使ってくるだろう」

「そうなのーーー でも、尊厳なんて、私だって意識出来ない、とっくにどっか行っちゃったわ」

生まれの経緯の中で抱えたもの、その行方を時が経ても失くさずにいる者が、アハバには何か重なるものを感じさせた。

「姫様、何と云うことを、御父上や御母上が悲しまれます」

まだ赤みの残る顔のフェーヌムがそれを代理するような悲しい顔で言うと

「ごめんなさい、そうよねーーー でもこんな古い銅板が何故欲しいんだろう、やっぱり何か秘密があるのかしら」

アハバは無意識にカリタスの顔を見た。

「彼奴が欲しがるのはな、例えば情け、そして例えば復讐だ」

一瞬皆その言葉に慄くようだった。

「復讐――― 何に、誰に復讐しようとしてるの」

その言葉に最も敏感なアハバが訊いた。

「自分を救ったものにだ」

「救ったもの、じゃあその魔女に、何故なの何故救われたのに復讐なんか」

「救われたことは確かだが、それは結果なのであってな、その魔女に元々その気はなかった、それどころか貶めようとした結果そうなった、だから彼奴にとっては全てを奪った相手と云うことにしかならんのだろう」

「全てって、それは人ではなくなったことと関係があるの」

「関係と云うか、そもそもきっかけなのだ、しかしそうしておらねば生きていなかったことも事実、問題はそうまでして生きていることを彼奴が恨みに思うておると云うことなのかもしれん」

「救われたことは知ってるの」

「解釈としてはあるかもしれんが、無いかもしれん」

「そう、ならそう伝えてあげないと、ひょっとしてモリは、そうしようとしてるの」

話の中にある傷み、誰がどうこうではなく悲しく切ない悼みそのものがこの世の全ての歯車を狂わせる、アハバは誰を憎むのではない、それさえ取り除けば憎悪など生まれるものではないと思っている。

「もはやそれには時が経ち過ぎた」

「そんな、どれくらい経ったと云うの、真実を知ることに遅すぎることなんてないと思う」

「時間としては――― この銅板程にだ」

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