血の怖

カリタスはウォルンタスの自らに呟くようなそれには答えず、テーブルの上に目を落としていた。

モリは聴き乍ら、銅板を壁から下しただけで、この四百年の間それに携わる以外の者にこうして間近に目にし手に取らせることなどなかったのを、それを今まさに自身が冒してしまっている呵責に苛まれているのが分かったが、どうしてもそのまま意思を陰らせる訳にはいかなかった。

「ひとつ訊くが、お主で何代目にかはなるにせよ、家を挙げて守り抜いて来たものにしては御父上がああして掲げらるようになった理由は何かあるのかな」

「――― はい――― 銅板画とは彫刻した銅の板にインクを塗り込みそれを紙に転写するいわゆる版画の一つです、木版であれば風雨にさえ曝されなければ原板がそれほど退化することはありませんが、銅の場合は湿気に弱く空気にさえ影響を受けてしまいます、ですから原板が完成いたしますと必要な枚数を摺った後は保存しておくことは余りいたしません、もししておくとしましても為るべく酸素に直か触れしなくて済むように表面に油などをたっぷり塗り込んで更に油紙などに包んで仕舞っておくのが通常です」

「なら逆ってこと、枠こそあるけど肝心の表は曝してるんだもの、まるでもう紙に摺る気が無かったみたい」

アハバが言うやいなや

「そう云うことだアハバ、それどころかこの三枚は銅板が仕上がった当時、注文の祈祷書に使う分だけを摺った後はこの四百年間ただの一度も紙を乗せられることはなかった、先に摺った物さえもうどこにも無い筈だ、在ってはいけないんだ、それを見てはならないとされたんだからな、作られた祈祷書もそのページは破られるか本ごと燃やされた、たった一冊に全部で百枚あったと言われている銅版画の内のたったこの三枚の為にな」

店に来るようになって働き始めてもカリタスがこれほど意思を持って口を開くのをアハバは聞いたことがなかった。

「そんな、この絵のどこがそれほどにいけないと云うのかしら、じゃあ、ここに原板があっても版画は」

「私も父も見たことはない」

「こんなのが百枚も、一体何人がかりで彫ったのかしら」

「たぶん一人だ」

「一人、たった一人で」

「参考にする古典絵画はあっただろうが、ここに収める為の絵柄も構図も全て自分で考えたのだろう、銅版画が全盛の頃なら分業する職人の数もいたかもしれないが、当時はまだ始まって間もない頃だし、何年も掛かった筈、その人物が私の家の始まりだ――― だがそれが為に首を刎ねられた」

「なんてこと――― 」

「斬首だと、そこまでの内容ってことなのかよ、この絵が」

アハバは手を口に当て言葉を飲み、ウォルンタス同様皆静かに驚愕した、そして三枚それぞれのどこかに大刑を受けねばならないほどの、それは恐らく反逆を示す箇所があるのだろうかと想起した。

「この人物の個人的なことは殆ど分からない、妻がいたことは伝わっているが、しかしそれも背徳者として罰せられた夫婦を諫めとする適当な伽話が伝わっている様なものだ、後を継いだ者が子だったのかどうかも分からないし、名すら分からない」

「とはいえ時祷書など作ろうとするのは貴族でもかなり有力の家の筈、その挿絵を全て一人の職人が依頼されるなんてとんでもなく名誉なことでござるよ、それが仕上がらないと何年も完成を待たないといけない訳だし、貴族がその代に一つ作るかどうかのものであるからして、その御方、当時なら猶更もはや職人と云う階級には留まらない身分だったのではあるまいか」

斟酌したのではなく衷心からそう言っているのがフェーヌムの表情から窺えた。

「身分より才能は確かにあった、それも類のない程のものだったろう、そしてこれに携わる者は皆きっとその血が自分にも流れているだろうことを信じて彫るんだ、しかしこの技を見るだけでなく或る日その意味を知らされて流れるその血に恐怖するのさ、皆一様に百枚の内のこの三枚が果たして故意だったのかどうかと、自らの意思でなのかどうかで揺れる心を持ち続けねばならなかった筈だ、するといつの間にかその罰が自分にも背負う十字架となるような気さえしてくる、もし天の者なら邪悪と見做され堕ちる様に、受け継ぐのは才ではなくその背徳だと言われて地下に潜るかに思えてなーーー これを彫った意図など分からない、いや、分からないと云うよりきっとただ美しいものを彫りたかっただけに違いないと私は思うことにしている、これ程のものは私にも父にも彫れなかった、だからせめて父はこうして飾っていたんだと思う」

酸化して荒れた部分を指で撫でながら、カリタスは伏目にしているエピファニーの横顔を見ていた。

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