父と子

内一枚はそうエピから聞いていたからウォルンタスにも聖母ではあるようには何とはなしに思えたが、時祷書と云うことを前提として載せる場面をある程度想像出来たとしても、ウォルンタスの言うのを聞かなければ誰もそこにすら辿り着けないくらいに萎えたような線画を読み取ることは難しかった。

しかし一度その手掛かりを得たことで若いアハバの目であれば他にも細かく描き込まれているのが追えるようになり、聖母のどの場面を描いたものかの想像はついた。

「無原罪を皆が祝福しているのね、違うかしら」

そう尋ねるアハバにカリタスは頷いた。

「足元や左右に沢山動物がいるわ、恐らくもっと小さな生き物も、マリア様の前で手を差し延べられているのは恐らくユニコーンね、それに反対側、聖母の背中側の隅に動物たちに混じって一人だけ幼い人の子供がいるわ、これはやっぱり御使い様なのかしら」

もう一枚は全体がより細かく見える絵で中央の者を囲むように数え切れぬ人物が描き込まれている、そして残る一枚も構図を上下に大きく分けたようなやはり多くの人物が描かれている絵だった。

「復活と、そして審判です」

皆が代わる代わる手に取り食い入るように見るのをエピファニーはただ見ていた、その位置からでさえ髪の毛よりも細く短い線が一面を覆い尽くしているその中で、箇所はそれぞれ違うが三枚共に同じ記号のようなものが形成されているのが見えており、それは絵柄を作る線に完全に紛れていた、エピファニーは皆にも見えているのかどうかも分からなかったし、意味するところも計りかねて黙っていた。

「随分と古いもののようだがいつ頃のものなのだね」

一枚をかざし見ながらモリが訊いた。

「およそ四百年前、この銅板彫刻が始まった頃のものです」

――― 四百年―――

――― 如何されました

――― うむ

「四百年だと、それがずっと此処にあったのか」

ウォルンタスは改めて気付かずにいた自分に言うように訊いた。

「こうして壁に飾ったのは父が始めたことだ、それまではずっと仕舞ってあったんだろう」

「それにしても、こんなものがお前のところにあるとは知らなかった」

「ピウスさんは知っていた」

「親父が、親父が何で」

「父と親父さんは若い頃からの盟友だ、もはや数少ない同じエングレーヴァ―同士だったんだから知っていてもおかしくないだろう」

「それでもお前の家に伝わるものなんだからよ」

「父はピウスさんの曲線の技術にいつも感心していた、知ってるだろう、線を切らずに続けたまま僅かに太さを変えるあの技だ、ピウスさんのあの柔らかさは他には無いもの、時々此処に来ては私に丁寧に教えてくれていたよ、だから余計父は信頼していたんだろう、木枠に入れてあそこに飾った日、私はまだ小さかったが、確かに此処に二人でいて眺めていたと記憶している」

思わぬことを聞かされウォルンタスはいつも閉じている様なカリタスの心の奥と自分の父親の遣る瀬ない気持ちを同時に見たような気がした。

成長するにつれ息子の傑出した身体能力に気付くと、もはや机に噛り付いて細工事になど興味を持ち続けられよう筈がないことにも気付いた父親は、それでも息子の心をじっと見つめながら一応は見習わせてはみたものの、すぐに強要することなく思う道へと自由にさせたのだった。

案の定に向こうから見込まれて軍隊に職業軍人として所属すると、一つの戦乱から帰還した翌日にはまた別の戦地へとまるで向うへ帰るが如くいそいそと出掛ける日々を送り始めた。

父親は息子に一度だけ訊いたことがあった。

「死ぬ恐怖はないのか」

するとにっこり笑って迷いなく答えた。

「それを相手に味合わせるのが俺の仕事だよ、父さん」

その時の思わず隠せなかった寂しい表情を父親はずっと後まで後悔することとなった、そんな顔を見せる為に問うたのではないことを言いたかったが最後までその機会を持つことはできなかった。

傍に居ても、思い遣る心を持っていても、たとえ誰よりも愛していたとしても、人は伝えたいことを伝えられずにいるものである、父親のそう云うところを息子は知っていても、その声をいつでも誰でも聞いてくださる方にさえ自身としては伝えられないものとなっていた。

カリタスとのこともそれはお互いにではないかもしれないが、だとしてもずっとウォルンタスの心に重くぶら下がっていたことには違いない――― ミラが床に就いてからの姿は一度も見ていない、見舞って元気付けたい気持ちは溢れる程あっても、カリタスが言うなら行けたかもしれないが、顔を合わせてもどうしても自分からは言い出すことが出来なかった、そうしている内に亡くなって棺に入れられているのを見た時ほど自分を情けなく思ったことはなかった、棺の中が黄色い銀杏の葉で埋め尽くされて顔と手だけが見えていた、手には畳んだ扇が持たされていたのを、後で思い切って理由を訊いたがカリタスは答えたがらなかった、家業を放って好んでまで戦場に赴くような者はいつしか友とは云えない遠いものになってしまっていたのかもしれない、まだ幼いオスティウムに技を継がせることの葛藤や最愛の者を失った悲しみ、もはやそれを近くで分かち合える存在ではなくなっていた。

「親父は来ていたのか、知らなかった――― 」

ウォルンタスは自分が知り得る訳がないこと、それほどに過ぎし日を顧みない頃があったのを今さら思い知った。


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