無垢なるもの
カリタスは自分に話を向けられて座り直すと、次の言葉を待つようにただ頷いて老人をまっすぐに見た、横にいたウォルンタスは何かいつものカリタスではないと感じた、若い頃徴収によって一度だけ出た戦場で右目を負傷して以降、口数も減り表情まで捉えにくくなった友は、妻の死や息子の失踪を経て人に正面から向き合う心を失くしている様でさえあった、そのカリタスがひとつの伝言だけを手掛かりに一面識も無い老人に対峙しているその姿はかつて子供のころに見知った一本気なカリタスのように思えた。
「あってはならないことって何なんだよ」
ウォルンタスが辛抱無く口を出した
「まだ何も分からん」
老人は素っ気なく言う。
「なんだよ、言葉のわりにに悠長じゃねえか、爺さん、さっき俺は口には出してない筈だが、彼奴を知ってるのかと言ったな、それはシレークスって奴のことで間違いねえか」
「そうだ」
カリタスの左目が左右に大きく動いた。
不意に現れた不気味な老人のエピファニーの印象は恐らくは間違ってはいないのだろう、そしてまるでそれを追うようにしてこの杖の老人がやって来た、謎めいた不吉な伝言の意味次第では暫くは帰還の許されないほどの、いやそんな戦場に赴く以上の難儀をウォルンタスは既に予見していた。
「ならこの話は長くなるな、カリタス、酒出せや」
ウォルンタスは話の途中にも構わず急き立てた。
仕方なく奥へ行って瓶やカップを持ってきたカリタスは、さっきの感じに加えてやはり思い詰めたような顔のままで老人に言った。
「――― ご老人、見て、いただきたいものがあります」
「ほほう、この会ったばかりの年寄りをそこまで信用しても良いのかね、まだ何も話してはおらんのだよ、それともシレークスと聞いてその気になったか」
「いえ、父と同じ言葉に聞こえぬふりをする訳には参りません」
カリタスは皆を二階へ通した、そこにはまだ起きて銅板に向かっているエピファニーが独りでいた、振り返って、入って来た者の中の老人に瞠るような眼を向けた。
「この子は」
直ぐにモリが言い、エピファニーをじっと見つめて訊いた。
「今、この私に何かが見えたのかな」
返事を待ったがエピファニーは直ぐに俯くと小さく頭を振った、モリはこうして部屋に入るまでその存在に気付けなかったことを奇怪にさえ感じた、同時にシレークスが既に此処に現れているのは獲物を遠巻きにしていられない昔乍らの性質によるものだろうし今も変わりはない筈であるが、もし会っていたのなら何かを変えた、変えざるを得なかっただろうと直感した、それはまだ伸び代とでも云わざるを得ないものだろうが、少女のそれは何か無原則であった。
――― 如何思われます。
――― 無垢としか言えん、これほどの心根は生を受けておる者に見るのは初めて、まるでまだ生まれておらんかのようじゃ、それほどに純一、ただ綻びかけてはおる。
――― 生まれる、生まれ変わると云うことでありましょうか。
――― 形は分からぬ、さても前にも会うておるやもしれん。
――― 会っておられると申されますか、それはいつ。
――― 方々以て妾の堕ちる前であろうが。
――― しかしそれにしては。
――― そうじゃ、妾のように堕ちて此処にあるのではないと云うこと、だからして。
――― しるし、でありましょうか。
――― うむ、さりとて在る筈のものが無いと云うことにはなる、そなたにもあるそれが微塵も感じられん、宿性すら見えん。
――― そのようなものが在り得るのでしょうか。
――― 在るとしても此処にではない、しかし眼にしているものを最早無いとは言えぬ、兆しか、いやそれも最早与談に過ぎぬ、さすればこの者自身がそうかだが、考えたくはないがモリよ、心せねばならんやもな。
遥か自分の比ではない遠大なるものさえ追い尽くせない心根の存在、かつて一度とも言い切れない一閃の中に感じたそれが存在と云えるものであったのならまさにこう云うことになるのだろうか、モリはもう一度静かにエピに言った。
「どうだ、今のも、全て聞こえておったろう」
同じ様に横に振る顔にモリは心底慈しみを以て微笑んだ、用心すると云っても何をどうするのかは言ったものも聞いたものも分からなかった、しかしその顔を見れば不思議と気は済んでいた。
「私もまだまだだ、奴のことをせっかちと笑うてはおれんの、シレークスは此処に来たのだな、そしてこの子には遇うたかの」
モリは振り向いてカリタスに問うた。
「はい、つい先だって、この子も下で一緒におりましたので」
「下で、ではこの部屋に入ったのではないのだな」
「はい」
「名は」
モリはエピファニーに向かって訊いた。
「エピファニーと申します」
カリタスが答えて俯いた子はその顔を少しだけ上げた、モリは意志を感じた。
「良い名じゃ、ではエピファニー、お主シレークスをどう見た」
モリはそのまま視線を外さず、皆がそれに答えるとは思えない子に大人に訊くように尋ねた、するとエピファニーは何も言わずすっと左手を上げ指で差し示した、そこにはあの三枚の銅版が掛かっている。
「ほう、彼奴の狙いはこれだというのだな、お主の見せたいものも同じかね」
驚いた顔でカリタスも頷いた。
「何なのあれ」
アハバがカリタスに訊くとウォルンタスが答えた。
「銅版画の原板だ、かなり古いな、聖書の挿絵か何かか」
今度はウォルンタスがカリタスに訊いた
「時祷書のだ、貴族のな」
それを壁から降ろすのはカリタスが父親から技を受け継ぐ時に一度きり見せられてからは初めてだった、粗末な木枠に嵌め込まれた一枚が掌に満たない程のそれは、いまや銅板の美しい艶と色は失せて所々幹の地合いの様な細かな凹凸まであり、痛みと云うより時の移ろいそのものが其処にあるようなものであった、それでも彫刻を施されたものであると分からない程に劣化し切っているわけでもなく、表面には相当に細かい線が入り組んでいることだけは見えた、木枠から外し手に取り、三枚共にカリタスの答えが先にあっても尚、細密な線で表した図柄はすぐにその答えと重なり得心出来るものではなかった。
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