姫と騎士

「それなりの家だったんでしょうけど、私がそう分かる頃にはもう屋敷も所領地もなかったわ、無いと云うより帰る処ではなくなったと云うことね、それに父も母もいないも同然だったし、だから私はこの国を上からどころか眞下からしか見たことはないわけよ」

「いないも同然て、どう云うことだよ」

ウォルンタスは一瞬聞くべきではなかったと「いやどうでもいいんだ」と打ち消した。

「二人とも気が触れてそのまま病院で亡くなったわ、私が十歳のころよ」

「血だ」

老人がそう呟くとアハバは老人を見て

「血」

「ご両親のことは不幸なことではあったが、ウィクトリアの家を王に連なる家までにした、そのトリスティスと同じ血が流れとるということだよ、これほど正直で間違いないものは無い、其方の中にはトリスティスがおる、それで、本当の名は何と云うのだね」

「――― ラクリマ、ラクリマ・R・ウィクトリアよ」

「ラ、ラクリマだって!」

素っ頓狂な声と同時に奥のテーブルの下からフェーヌムの尖った赤い顔が飛び出た。

「あんた、あんた本当にラクリマお嬢様なのかい!」

皆あっけにとられてようやくウォルンタスが

「てめえ何してやがんだそんなとこで」

「何って何も悪さはしておらん、酔ってこの椅子で横になって寝てしまってたらあんたらの声で目が覚めて、そしたらウィクトリアなんて言うもんだから、出るに出られないのがラクリマ様と聞けばとてもじっとなどしてられんでござるよ」

フェーヌムは残る酔いと好奇心とで泣き笑いのような顔をしている。

「ハイハイ、アッパー様はこの名前をご存知なの」

アハバが声を掛けるとフェーヌムは即座に直立して

「このフェーヌム、臣下の一人として申し上げます、ご存知どころか、知らぬと云うならそれは貴族として有り得ぬ不誠実、ウィクトリア家と申せば南のウエルムンド辺境伯で在らせられた頃からの盟主であり、連合後は事実上王連公家筆頭と言うべき公爵家であります、その御名にまでなった統治領ウィクトリアは――― ウィクトリアは――― 卑劣にも、奸物どもの奸計により今は、今だけは、王領に併合されてはおりますが、本来は誰が何と言おうとラクリマお嬢様が引き継がれるべき所領なのであります、なかなか御子に恵まれなかった先代御夫妻にようやく授かった姫様、貴女様のものなのです、あの広大な地域で取れる綿や穀物から小作農民に至るまで全てがです、そして皆が、あの土地に住まう全ての民が、今でも姫様のご帰宅を信じて待っている筈です、今の無能な国王が資本家なんぞの言いなりにならずに、女系嫡出をさえ認めておればこのようなことにはなりませなんだことを、そもそも共和国王でいられるのも元はと言えばウィクトリア家中興の祖であらせられる女傑トリスティス様の御蔭以外ないのですから、その御恩も忘れてしまいおって、私はあれからいつもそのミドルネームに相応しきあの御庭が思い出されてなりません、第一城のサンクトゥス城や夏を過ごされたアルゼンターム城が勝手に売りに出された時は誰もが驚き泣いて――― 」

そこまで言ってぐしゃぐしゃの顔で涙を拭うと、後はアハバの顔を寂しく見るだけだった。

「お前さん本当は貴族の出じゃないんだろうけど、アハバの家のことまでよく知ってるんだな」

ウォルンタスが促すように言うとフェーヌムはまたアハバに向かって

「確かに、確かにこのフェーヌムは貴族ではありません、がしかし四代前には本物がいたのです、つまり一代貴族なのです、まだ方々で戦さの絶えない頃だったからこそ、槍の使い手として特別な戦果を挙げた勇敢な豪傑男爵だったと伝え聞いております、しかし一代は一代その後は食い潰してしまったのでしょう、でもどうしても憧れがありましてね、せめて振りだけでもと、だから通り一遍の知識だけはあるってわけで、でも、お仕えしておりましたことは嘘ではありません、庭師としてですが、あのサンクトゥス城の中庭の薔薇園をお世話させて頂いておりました」

フェーヌムが最後は元気なくうな垂れたようにして言うとモリが張りのある声で

「合格だ」

「へ?」

「お前も合格なんだってよ」

ウォルンタスが嬉しそうにそう言うとフェーヌムは訳が分からず

「合格、何に、まさか、姫の」

フェーヌムは目をパチクリさせてアハバを見ると。

「ないない」

アハバは顔の前で手を振った。

「あのなぁ、お前さんにもだな、その血は流れとるということだ、その御先祖の豪傑のな、それとお家と姫を想うその心、それで十分だ、のう」

モリはウォルンタスに向かって言った。

「なんの仲間かは知りませぬが、ここにあのウィクトリア家の姫様がいらっしゃるなら私は今より守護の騎士となりますぞ」

「おいおい庭師がでかいこと言うね、しかしその決意にはお言葉を賜ってもいいんじゃねえか」

ウォルンタスはそう言ってアハバを見た、困ったように口は笑って目だけ天井に向けているアハバはそれでも

「あ、ありがとう、よろしくね」

「だとさ、これであんたは晴れて守り神だ、フェーヌムだったな、そんなとこ突っ立ってねえで騎士は姫の隣だぜ」

ウォルンタスはそう言って改めてモリの方を見た、今は偶の請負いで戦いに加わる程度ではあったが、臨戦でなくとも警戒態勢の背後をああも簡単に取られる覚えはなく、戦場であれば簡単にやられていたことになる、その瞬間からウォルンタスはこのモリと云う老人を用心せずにはいられない訳ではあるが、知れぬ得体に反して心胆を寒からしむるところの皆無なその力の抜けた風情には不思議なほど用心が続かないでいた。

「面白くなってきやがったな、で、爺さん合格ってからには何かの学校にでも入れてくれんのかよ、なにをおっ始めようってんだ」

「俺は学校ならご免だ」

サッサは本気で嫌がっている。

「まあ慌てなさんな、で、そなたがカリタスだったな、伝言は聞きなさったな」


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