長い杖の老人

アハバは昼間洗濯屋の手伝いをしている、蒸気の充満した部屋で何人もの女達と重い鉄のアイロンを操り背中のタトゥーが透けて見えるほど毎日大汗をかいた、骨の浮き出た背中に大きな十字架が描かれていて青い薔薇が巻き付いていたからそこではロサと呼ばれていた、その仕事を夕方までに終えるとすぐに大湯で汗を流し、今度はカリタスの店を手伝った、店には洗濯屋の者達も来ていて彼女をそう呼んだが、だからといって誰もそれを気にしなかった、アハバはロサでロサはアハバだった。

「カリタスはさん付けで、なんで俺たちゃは呼び捨てなんだよ、神は分け隔てなさらず皆平等なんだぜ、なあサッサ、ガハハハッどうだ言ってやったぜ、バンザーイ!」

今宵もウォルンタスは上機嫌である。

「ハイハイ、ウォルンタス様これはこれは大変失礼いたしました、では皆さまと平等にこれを今すぐお支払いくださいませ」

と言ってツケの束をウォルンタスの額にピシャリと当てた。

「いや、呼び捨てで結構です、なんならお前でもいいです、なサッサそうだろ、ではご一緒に、アハバ様バンザーイッ」

「ウォル、ウォルって、もうっ、それよかあれ見てみなよ」

アハバは賑わう店の一角を顎で指した。

「なんだよあれって」

ウォルンタスとサッサは半分瞼の落ちかけた目で顔をそちらへ向けた。

「あの隅で鼠色のジャンパー着てる二人組さ、首元までボタンを留めてるから分かり難いけどさっき皿を差し出したら受け取るとき袖口に白いシャツがほんの少し見えたわ、ありゃきっとミドルだよ」

アハバは声を潜めて言った。

「ミドルだと、この店にか、白いシャツくらい誰だって着るだろよ」

ウォルンタスはそう気の無い返事をした。

「ハイハイ言ったわね、あんたが白い清潔なシャツ着てるのなんて見たことないし、永遠にないわね、ごらんなさいな他の客で白いもんなんて着てる人いないでしょ、労働者はねそんな汚れの目立つものは絶対着ないわ、いい、それをあいつらは年中着てるのよ、しかも毎日洗濯仕立てのちゃんとアイロン掛かったのをね」

「そうなのかよ」

「そうよ、私が毎日掛けてるんだから間違いないわ」

ウォルンタスはそれでもあまり合点のいかない様子であった。

「なんで白なんか着るんだ」

サッサもただ理解出来ないような顔で言った、アハバは思い至ったように

「あら、まさかあんたたち、ひょっとしてミドル見たことないの」

「ねえよそんなもん、そりゃあよ、仕事の上の上はミドルかもしんねえけど、俺たちに持ってくんのはハイアンダーだからよ」

ミドルクラスが経営する様々な会社から発注される大小様々な仕事の依頼は、一旦はこれもミドル資本の外注会社に行き、そこからそれぞれ分野分けされて方面ごとの手配会社へ卸される、そこも結局経営はミドルだが、発注しに足を運んで来るのはウォルンタスの言うハイアンダーと呼ばれる者である、彼らも同じアンダークラスだが、その中で特に指定された者だけがそう呼ばれていて力仕事は一切せず、同じアンダーの中でも別格意識が高い、つまりハイアンダーでさえ出入りしないこの酒場にミドルがいることはおよそあり得ないことであった。

「間にそんなのがいるのね、それは知らなかったわ、あいつらどこまで私たちのこと見下してるのかしら」

アハバは苦々しいような顔をした。

ウォルンタスはアハバが上のクラスに詳しいことは感じていて、何か訳でもあって敏感になっているのかとも思っていたが、もし本当にミドルが此処に来ているのならやはり不自然だと状況が呑み込めてきた。

「でもよ、あいつらだって小遣いが足んねえ時ぐらいあんじゃねえのか」

「もーっあんたじゃないんだよ、一体あいつらが普段いくらのお酒飲んでると思ってんのさ、あんたのこれ全部足したってあいつらの一回分にもならないんだからね」

アハバは抑えた声で言ってツケの束をまたひらひらさせた。

「でもなんだかおかしな二人ね、まるで木偶人形みたいじゃないか、出された料理だって一口も手を付けてないよ」

「なんだと、ここのもんが気に入らねえってのかよ」

しきりに木の匙で豆を口に運んでいるサッサが身を乗り出してそっちを睨んだ。

「あーだめだめ、サッサが睨んだら山の頂上からだってばれちゃうわよ」

ウォルンタスはエピファニーから聞いた話と無関係ではないような気もし、入れ込み始めているアハバがこれ以上過剰に反応しないようわざと白ける言い方をした。

「お前はまだここで浅いから知らねえかもしれねえが、たまにいるんだよ労働者の暮らしを見たがる物好きがよ、そうやって心ん中で悦に入ってるんだろうよ、可愛いもんじゃねえか、そっとしといてやれや、うんと東の方で言うらしいぜ武士の情けってやつだ」

「そりゃおめえ、向こうがこっちに言うこったろ」

サッサがそう応じて二人は高笑いした。

冷水をかけられたアハバは「そう、なのかい」と言って気を残しながらも給仕に戻った。

ウォルンタスはサッサに目配せして、もう一度大湯に行くからとアハバに言うと店を出た、そうしてすぐ右脇の路地の暗闇に身を潜めてそこの窓から鼠服に目を配った。

アハバが言う通り全く料理も飲み物にも口を付けず、向き合ってはいるものの話さえしていない様にも見え、ただ僅かに気を配る様子からは何かを待っているかのような感じであった。

――― 何してやがんだ、何しに来た、何かを待ってんのか、機会を窺ってるのか、まさかあの銅板狙いてなことはねえか、今は二階にエピ一人のはずだが―――

ウォルンタスは鼠服二人の様子と二階へ上がる階段口に目を瞠っていた。

「何しとるんだね」

意識を集中している最中に急に後ろから声を掛けられ、ウォルンタスは身の毛立った、振り返るとそこには老人がいた。

――― シレークス。

ウォルンタスは心の中でそう呟いただけだった。

「ほう、お前さん彼奴を知っとるのかね、出張っておると云うノームの噂も本当のようだの、年を重ねても相変わらずせっかちな奴だ」

そう言ってウォルンタスの顔の横から覗いていた方を見た。

「気付いた女を気遣って、ひとり自分は外から見張るか、ふむ、上出来だの、おぬし合格だ」

老人は顔を見て微笑んだ。

「へ?」

ウォルンタスは全く呑み込めず眼を丸くしている。

「さてお前さんの相棒はと」

老人が言った途端、その身体がふわりと持ち上がった、サッサだった。

二人が老人を連れて店の中に戻って来ると、さっきまでいた鼠服の二人がいなくなっておりアハバが慌てている。

「ウォル!食い逃げよ、食べてないけど、食べてなくても注文してるんだから食い逃げよね! あいつら金持ちのくせに、気付いたらいないのよ」

昂奮して早口に喋りながら老人に気付いて

「どなた?」

「アハバも合格だってよ」

「へ?」

モリと名乗った老人は、明るい店の中で見ると足の運びや姿勢からはそうは感じさせない程で、伸び放題の白髪を後ろで束ねて長い杖を携えていなければ誰も老人とも思わなかったろう、ウォルンタスはエピファニーから訊いていたシレークスとは違うことを漸くに認識した。

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