第三節 音と声
オスティウムのような才能の有る無しなど、唯一無二であったものをこの新しい子に確かめても仕方がない、焼き付いてしまっているものと歳が重なれば否応なしに見せつけられることにはなるだろうが、カリタスはそのことに不思議なほど固執せずにいられる自分を感じていた、ウォルンタスが血走った目で持ってきた話しを聞いた時は流石に驚いたが、まさか我が子の代わりがどこにある訳でもなく、そう云うことより友から見ればその時の自分はとても一人にはしておけない有り様であったのだろう、負けずに悲痛な顔のウォルンタスに応じ、歩き始めたばかりのその幼子を自分の子とした時は確かに思い描くものが無いとは云えなかったかもしれないが、同時にまるで父親としての自分を出直させるような気持ちにもなっていることに薄々気付いたのだった、それほど一人になったことを辛く感じていたのか、息子に見捨てられたような寂しさを憶えていたのか、それとも妻に合わせる顔の無い自分をどうにかしたい気持ちがまだあったのか、いずれにせよ手の中で眠る子は間違いなく既に我が子になっていた。
エピファニーは最初からと云ってよかったほどに、男親には意味を図りかねるような愚図りは無かったし、少し成長しても外で他の子たちと遊ぶことをまるで欲せず、そう生まれ乍らに定めているかのように父親の言葉を待つ子供であった、他の様々な職人家庭の子らもそうであるように、生活の中にある稼業と云うものを自然と自分の生業と受け止めているのか、銅板へ向かうのは自らであり、幼い乍らに弛みも無く、そして子供には似つかわしくない程に口数も少なかった、物心が付くかどうかの頃から気付いた余り変えない表情もカリタスは特に心配するものではなかったし、寧ろ出会った頃のミラにどこか似ているとさえ感じていた。
ニードルからビュランに持ち替えて数年経っただけのエピファニーの中には、既に彫刻の技への迷いと何かしらの葛藤らしきものが生まれていることくらいは分かっていたが、出直したとはいえカリタスはそれを血を根拠としてただ故無しとしないだけで、未だ慰謝する言葉を持ち合わせている訳ではなかった、ただせめてオスティウムにしてきたような常に器から溢れるほどに注ぎ続けるようなことだけはせずにいるばかりであった、それでももうこの子しかいないこと、技はエピファニーに継がせるしか他ないことに変わりなく、もしそうならなかったとしても全ての罪は自分が背負う覚悟をし、父親の言った言葉の罰を意識せぬ日はなかった。
「工房が下にあった頃から出入りはしょっちゅうしてたけどよ、上の寝床のあるとこだな、入ったことはあるだろうけど、そんなもんが掛かってるのは覚えてねえな、どんな絵柄だ」
「小さいし、天井に近いところだからよく見えないんだ、でも一枚は聖母だと思う」
「なんでそう思うんだ」
「真ん中に輪郭線のようなのが見えて、あれはヴェールの形だと思うから」
ウォルンタスは内心かなり驚いている、これまでエピファニーが特定の人物や出来事に捉われるようなことはなかったし、何より感じたことや見たことを口にすると云う意欲そのものを開くこともなかったからである、ウォルンタスが大湯を済ませて店に来るのをエピファニーは店の角で待っていたようだった、食事の後でいいから聞いて欲しいことがあると言い、そんなことも初めてだったのでその儘店には入らず月明かりに照らされた川岸まで下りていた。
捉われると云うのは、勿論そのシレークスという老人のことではあるが、怖がると云うのではなく寧ろ興味を持ったように話し、老人の本当の目的が二階のその三枚の銅板にあるような気がしてならないと言った。
「そんな古い銅板に何の価値があるのか知らねえが、画商だってんなら格別おかしなことでもねえだろうよ、だが オスティウムのことをわざわざ出したのはやはり引っ掛かるな、話しからすると其処にはもうあいつが居ねえことも知っていながらだろうし、執拗なのも気に食わねえ、もし仮に色々知った上で訊いているとすれば、理由は分からねえがどうもカリタスを揺さぶる意図がある、場合によっちゃあオスティウムのことも何か知ってるのかもな」
居合わせたとは云え、おそらく父親とはそんな話しも出来ずにいるのだろうし、仮に話せたとしても真面にカリタスが取り合うとも思えない、しかし子を育てたことなどないウォルンタスはエピファニーのこの思わぬ変化がそのことをきっかけにしているのか、それとも単に時期が来たと云うことなのかは分からないにせよ、これが子の成長と云うことでもしあるならばと嬉しく感じていた。
「親父はどんな様子だ」
そう態と訊いてみると、またいつものように口籠る感じにはなったが、その日はやはり違っていた。
「父さんには言わないで欲しいんだ」
「何のことをだ、俺があいつに告げ口するとでも云うのか」
「ううん、でも絶対言わないで」
「ああ、絶対だ」
「――― ウォルは――― 生きてると思う、オスティウムのこと」
知る者の誰もが思ってはいても、誰も口にはしないことを訊かれたのがウォルンタスを少し動揺させた、どうしているかではなく、生きているかと問われれば答えは当然一つではあるが、会ったことの無いオステュウムのことを初めて訊いたエピファニーにはどう伝えるべきか少し考えざるを得なかった。
「あいつの母親が亡くなったのはな、今のお前と同じくらいの頃だったかな、お前の前で言うのもなんだがな、母親を失ったその寂しさをカリタスは受け止めてやれていなかったのかも知れねえ――― それは、ミラを亡くしたことはカリタスにとってもとても辛いことだったからな、あいつはあいつなりに息子と二人で必死にやって来たんだろうけどよ―――そりゃあ俺なんかが口で言うのは小せえことだが、父親と息子お互いに大事なものを無くして、その無くなったものを埋めきれずにいたんだろうよ――― 互いがその代わりにはなれなかったのかもしれねえ――― だがよ、あいつは生きてる、気休めに言うんじゃねえ、あいつはいつかきっとお前のいい兄貴になるぜ」
そう言ってエピの頭を撫でた。
「僕も、出来ないよ、代わりなんて」
「おめえは代わりなんかじゃねえさ、そりゃあ最初はそうじゃなかったとは言わねえ、けど今はお前の代わりも誰にも出来ねえのと同じでお前は誰かの代わりなんかじゃねえさ」
「僕の、代わり」
「ああ、もうお前の代わりはねえよ、お前はカリタスにとって、ミラやオスティウムと同じように掛け替えの無いものだってことだ」
「同じーーー 」
それからエピはシレークスがオスティウムの名前を口にした時、カリタスの身体が赤く燃えるような揺らぎに包まれたことを話し、自分も変な感じになったと言った。
「赤か――― そりゃあ、そん時のあいつの心が見えたのかもな」
「こころ」
「誰だって怒ったり悲しんだりするだろう、それが心ってもんだ、お前にだってあるだろ、ここいら辺によ」
そう言ってウォルンタスの人差し指がエピの小さな胸を軽く突いた、するとエピは驚いた様に両手で自分の身体を抱えるようにした。
「おいおい、女みてえな仕草すんじゃねえよ、いいか、男ってえのはな」
「女だよ」
「はあ」
「みたいじゃなくて僕は女だよ」
「誰が」
「だから僕だよ」
「僕だよって、何おかしなこと言ってんだ、おめえ男だろうよ、変なこと言うんじゃ」
「勝手に男にしないでよ――― 女、だよ」
そうエピは如何にも自信なさげに言って、不服そうな顔で抱えた膝に顎を乗せた。
「お、お、おん、女だとぉ、おめえ、いつから女になんか」
「――― 」
「んな訳ねえだろ、あん時俺がちゃんと、確かめ、て――― 」
ちょうど自分の足で立ってふらつきながらも歩み始めた頃だった、確かに男だと間違いなく聞いたが、相手がそこを違えるとも思えず、考えてみれば服を捲った訳ではなかったし、第一、あの日男の子と云う約束で親になった筈のカリタスは今の今までそんなこと一度も口にしたことがない。
「――― それ、本当なのか」
「本当って――― ウォルこそ本当に知らなかったの、ひょっとして僕、女じゃいけなかったの」
「馬、馬鹿言うんじゃねえよ、お、おめえがだ、おめえが女ってんなら、男だろうが女だろうが、おめえは、おめえだろうがよ」
ウォルンタスはもはや自分が何を言ってるのか分からなくなっている。
「それで、あれだ――― カリタスは、親父は知ってんのか、このこと」
「当たり前じゃないか、ばか」
「お、怒るやつがあるか、ちょっとばかし確かめただけだ、うん、そうか、そりゃあな、おむつだって、替えてただろうからな」
「ウォル、もうっ、ばかっ」
エピファニーは堪らず立ち上がってウォルを置いたまま店の方へ歩き出した、急いでウォルンタスも腰を上げた。
「いや、知らなかった訳じゃねえんだ、訊いたことがなかっただけでよ」
「同じだよ、どっちも」
「そう怒るなって、な、機嫌直せ、でもおめえ、やっぱりそんなとこは女みてえだな、カリタスみたいに赤くなってるぞ」
冗談のつもりでウォルンタスがエピファニーの前に回り込んで言うと急に立ち止まって
「いつもはあんな色じゃないんだ――― 」
「なんだいつもって、見えたのは初めてじゃないのかよ、いつもはどんな色なんだ」
「色と云うより、陽が当たったように見えるんだ、ウォルも」
「俺も、今もそう見えるのか」
「今は違う、ふっとした時さ」
「そうか――― すまなかったな、言い方が拙かった、女なら女でそれはそれでな」
「女がどうしたって云うのよ」
いつの間にかすぐ後ろにアハバが立っていて、ウォルンタスの首元に巻き付く様な野太い声で言った、不意を突かれて動揺に動揺が重なれば人は一時的に停止するものである。
「いや――― 」
「あんたまた私の悪口言ってんじゃないだろうね、こともあろうにエピなんかに、そう云うつもりなら今日こそツケの全額払って貰うからね」
「ふ、ふ、ふ、ふざけんじゃねえ、ツ、ツ、ツケが恐くてカリタスの店に行けるかってんだ」
「お前らこんなとこで何やってんだ、家族ごっこなら店ん中でやれ」
今度はサッサまで割り込んで来て、エピのお尻をひょいとすくったと思うとまるで小鳥のように自分の肩に乗せた、いつものこととは云えウォルンタスは慌てて
「お、おい、サッサ、あんまり乱暴にするな、優しく、優しくだ」
「あんた何訳分かんないこと言ってんのよ、今更女の子に優しくしようなんて見え透いたこと言って」
「え、女、の子」
「エピを味方にしようたってそうはいかないわよ、エピ行こ、うつるわよ馬鹿が」
「ま、待て、アハバ、おめえ、エピ、女、知って――― 」
「あんた壊れてんの、それともやっぱり馬鹿なの」
サッサとアハバは呆然と佇むウォルンタスを置き去りにして帰って行く、サッサの肩からエピは振り返ってウォルンタスを見ていた。
なぜあんなことを聞いてしまったのか、オスティウムが生きていることを皆が望んでいることは分かっている筈なのに、ウォルンタスの陽の差す言葉の中にカリタスの言葉もあるのだろうか、そして自分の本当の気持ちはどこにあるのか、エピはその夜銅板に向かっても一筋も刃を入れることができなかった、しかし寂しいと感じるのは、もういない母親を求める心なのだと分かったような気がしたことが、エピにとってはまるで世界が動き出したのと同じであった。
時計の振り子や風が揺らす木々の音、下の酒場から聞こえる客達の話し声までも、すべてが漸く聞こえ始めたのだった。
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