初恋

その町でも少女がいつも独りであることには変わりはなかった、だとしても、ヴェールを脱いで俯かずにいさせてくれるだけで嬉しかったし、家族以外の友人と呼べる者がいなくとも、通りで子供たちが遊んでいるのを離れたところから見ているだけでそれでよかった。

心配した危難など無い代わりに、ただ大人たちだけでなく無邪気である筈の子供でさえもが、少女のまるで温度の感じられないような姿を見ようとはせず、双方ともに置いた距離を変えないことで一定の関係性が成立していた。

親が肉体労働の家庭の子供たちは学校が終わった後に室内で過ごすということは殆どない、だが同じアンダークラスでも職人の家庭となると少し事情が違い、それは学校で学ぶこと以上に人生に於いて親の専門職を受け継ぐことが何より重要だと云うことである、従って銅版画職人の息子であるカリタスは帰宅後直ぐにもひたすら机の上の銅板に挑み続けなければならなかった、気付いた時には右手にはいつもビュランを握っていたから修行と云うものが一体いつから始まったのかは本人としても明確ではなかったが、おそらくは五年以上は同じ斜線や放射状の曲線を彫り続けており、漸くにある古典を復興した画家のデッサンを刻むことを許され初めて与えられた自分の机に向かった日のことだった、前の小さな明り取り窓から、通りの向こうのイチョウの葉が降り積もったベンチに一人で座っている少女が見えた、それは最初遠目には生きた人とは思えぬほどにそこだけがまるで絵の様で、目を凝らすほどにまぼろしのようでもあった、季節にはもう遅いかと思える薄着で膝の上に両手を揃え、正に其処に置かれた人形のようなその少女はまだ本当の外の世界を知らないカリタスにとっては初めて見る美しいもののように惹きつけられた、その日から少女は変幻するように気が付くとまた其処にいて、少し目を離すと消えていた、幾日かそれを経験する内に引っ込み思案だったカリタスは、幼馴染で物怖じしないウォルンタスにそのことを話した。

「かわいい子なのか」

ウォルンタスは大きな身体をくっつけてきた。

「うん、でもよく分からないんだ」

カリタスはどういえばいいか本当に分からなかった。

「分からないってどう云うことだよ、幽霊じゃあるまいし」

ウォルンタスはさっき言った自分の言葉を思い出して拳をぐっと握りしめている、二人が顔を寄せ合って窓から見たその少女は服と靴以外は紙のように白く、遠巻きには眼がほんのりと赤く感じられた。

其処からでは少女がどこに視線を送っているのかさえ分からなかったが、真っ直ぐにしか向いていないその姿勢からは或いはどこにも合わせていないようにも感じ、場合によっては見えていないと云うこともあるのかもしれないと考えたりした。

「よし、行くぞ」

ウォルンタスに話した時とは打って変わって、心に誓ったようなカリタスはそう声に出して言うと先に歩き出した。

怖気づいたようにおずおず付いてくるウォルンタスを置いて振り向かずに一直線に進むカリタスは、通りを渡ってベンチの方へ止まらずに行ったが、少女が近くなるにつけ段々と踏み応えの無い雲の上を行くようであった。

「や、やあ」

数歩先まで来て少女と確かに目を合わせたとは思ったが、カリタスが立ち止まってやっとそう挨拶しても、初めて間近で見る少女は視線を少し落としたと思うと表情も変えずに何も言わなかった、ひょっとしてやはり見えていないのかという気にもさせるほどにその面持ちは普通とは違うようだった、二人がなかなか次を言い出せずにいると、少女は急に立って去ろうとした。

「待って」

カリタスは無我夢中だった、もし少女が走り出していたらカリタスも走って追いかけたであろう、それほどに胸が熱くなったことなど生まれてこれまで無いことだった、そしてもしここで何も交わせずに終わったならもう少女は二度と現れないような気がした、麻痺したように動かない唇から構わず吐き出すようにカリタスは言った。

「君と、友達になりたいんだ」

息が吸えず最後は消え入るような声だった。

背を向け俯いて立ち尽くしている少女は思った以上に背が高く、左右に前に垂らした長い髪の間からとがった首の骨が見えていた、とても長く感じたあと、やがてゆっくりと、本当にゆっくりとこちらに向き直った少女は初めてカリタスを見た、そして小さな声で言った。

「私が、怖く、ないの」

ミラと過ごした日々のことは来る日も銅板に向かい続けるだけのカリタスにとって全てが宝物であった、最初の頃、やや籠るようなその言葉が訛りとは分からずただ舌足らずの様にも聞こえ、会話を重ねる内に少し子音を抑えるようにして発音することで似たようになるのを好んでしていると、ミラが軽く頬っぺたを抓ってきたことがあった、それがこの上なく嬉しく時にわざとして怒らせたことさえもそうであるように、あの日以来の毎日のひとときがミラとの為にあったと云え、子供乍らにそれをひとつひとつ胸に仕舞って生きていた、少年と少女はあっと云う間に青年と乙女となり、もはや待てぬように結婚した頃には工房には人影がなくなっていた、子を宿したことをきっかけに其処を食堂に変え二人であれこれと考えながら店を作った、お互いが料理をし給仕もした、既に両親も雇職人もいなくなり、何より銅版画が時代から必要とされなくなったとしても、受け継いだことを受け継がせる為だけの場所は残し、そうして息子が生まれた。

やがてオスティウムがビュランを握って五年ほど経った頃、ミラはベッドからは起き上がれなくなっていた。

「私、本当は待っていたのよ」

「待っていた」

「そう、子供の頃あのベンチで、お母さんは家にいなさいって言ったけど、私なんだか隠れるのが嫌だったのと、いつか声を掛けてくれる人がいるんじゃないかと待っていたの、そうしたらすぐにあなたが現れた、私その時、世界が変わるような気がして、この人と結婚するんだわって思ったの」

「ああ、あの時か、そんなことまでかい、でもあの時はウォルだっていたんだけどな」

「あら、なら彼にすべきだったかしら」

そう言ってミラはくすくす笑った。

この世界は君のものだ、君が世界そのものだ、君がこの世界をすばらしいものにしてくれた、ミラ、僕は今すぐ君に逢いたい、逢えるのなら何でも犠牲にする、全て捧げよう。

カリタスはミラが亡くなる日のことを何度も何度も思い出しては、彼女がすぐ傍にいるような想いでオスティウムと生きた。

「あの子は必ずあなたの救いになるわ、優しくしてあげて、あの子の中に私もいるから」

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