開く血路

高地で生まれた少女と市井に暮らす銅版画職人の息子が巡り合うにはどちらかの運命が大きく動き出さねばならない、人は偶然出会うのではなく、求めそして見つけるものである。

厳寒の時期は過ぎていたが稜線はまだ凍てついている、馬もそうだが荷車の車輪が滑らないように陽の出ている間は用心しながらゆっくりと進み、ちょうど陰る頃にまるで辿る者を休ませるかのように現れる神殿跡で野宿を繰り返しながら、最後の擂鉢のような谷で繋がれた山塊を踵で下り、一家としては生まれて初めて故郷の山に囲まれた場所を離れた、灰色の雲に覆われた寂しく懐かしい筈の聖なる山々を背にしても今となっては誰も振り返ることなく、いよいよ吸う息が温み濃くなるのを感じながら里の点在し始める家々にばかり気を取られたのは、遂に家族の最も恐れることにこれから身を浸さねばならないからであった、それは村を追われる素因である民族的な差別や因習への偏見ではない、麓のすぐの村の者たちとは身に付けている服装も被る帽子の色や形状までもが同じであるが、唯一同じではない自分たちの一人娘のことが気懸りなのであり、同じでないのはそれは少女の特殊な見目形、壊れそうなほど儚く透き通るような白さは肌のみならず髪や眉までもがそうであり、以前村を訪れた異国の旅人が外の世界では呪術的に変質したある種の物扱いを受ける恐れがあると射貫くような目で見て言ったのを何より恐怖の素としていたからである、その旅人は迷信的な甚振りとも言った、示す意味はよく分からなくとも迷信も甚振りもまだ子供の女の子には縁を結ばせる訳にはいかなかった。

両親は娘に顔まですっぽりと隠れるヴェールを被らせ、意識的にその旅人が来たと言っていた方角とはなるべく反対の方へと、まるで迷信から逃げる様に大まかに東寄りに少しづつ南下して行った、未だ火を欲しがる時期を終えてはいなくともそれこそ下界は一家にとっては寧ろ暖かくさえあり、農道脇に止めた荷馬車の中でなら幾週間でも眠ることができた、しだいに季節が野原を草花で彩る頃になって、名も知らなかった海と云うものの見えるその町にからがら辿り着くと、初めて見る大海とそこから山へと広がる汐の香る風景は彼らにもう進むことを踏み止まらせるものがあった。

羊と山羊は全て手放さざるを得なかったが村で一家が生業にしていた山羊の乳から作るチーズだけは積めるだけ荷車に積んでいた、それを少しづつでも売って落ち着くことが出来ればと考えていた。

隔絶された高地で生まれ育ち、旅人のやって来た外の世界に向かって身を投げだし、隠しようの無い訛りがどう受け取られてしまうのか、そして娘をどう扱われてしまうのか、おそらくは高地を出て以降誰かにものを言うことをなるべく避け、言わねばならない時はどれほどの緊張と恐怖があったことか、ところがである、果たして結果的には高地を出てのち一家があからさまな拒絶の目に会うような場面と機会はただの一度もなかったのである、それどころか母親や娘の着ている羊の毛を紡いで編んだペチコートやガウンは途中の農村で会った女たちには羨まれるほどの様であったし、寧ろ男も女も皆着古した暗い色主体のもので過ごしていることが目についた、ただ母親の被る帽子は女ではなく男のものと幾分似ており、女たちは皆髪は結い上げ帽子より頭巾を被っていた、道行く子供が何人もそれを見て笑うのがそのせいだと気付いても母親は平然と澄ましていた、それに子供以外は笑うどころかその子を窘め会釈する親たちにはわざわざ帽子を浮かせて笑みを返していた――― 堆積岩と雪で覆われたあの凍て付いた世界は一体なんだったのか、何代にも渡ってあの斜面しかない場所を世界の全てとして来た生き難さの意味はなんだったのであろうか、崩れてその遺物さえ殆ど残さない神域は年寄りの言う守りを最早必要とはしなくなっていたのであるなら、其処に人が留まり続ける意味も必要もまたなくなっていたのかもしれない、そしてあの残忍な軍人達は何をあれほどに憎んでいたのか、そうであった、そうに違いない、それは戦争であった、終わりのない戦争、この世界とあの世界の違いはそれしかないのである、戦争で仲間を失い、次は自分かもしれないという恐怖が暴力を盲目にさせるのである、彼らも故郷を追われた一家も残る者達も皆共に戦争と云う狂気への生贄であることに違いはなかった。

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