すれちがい

本来根気よく教え込まなければ分からないような、髪の毛一本分も無い程の線を彫り出すその刃を銅板に当てる角度までも、自然と自らの中に備えているかのようだったオスティウム、カリタスの満足はその才能としてのみならず四百年続くカルコグラフィー職人としての血が確実に受け継がれていることへの満足でもあった、しかし自分もしてきた様にまずは十五年を先の修行として、銅版画の歴史に照らして相応しい格のものを彫るようになったと見た頃には、父親が日々執着を迫るもの以外に世間と云うものをも知り始めた息子はもはや従順ではなくなっていた、二十歳にも満たない青年だ、親の監督圏から外れようとすることは何も珍しいことではない寧ろ通る道であると周囲から諭されても、此処に至っての逸脱は受け継ぎ続けなければならないことの破断を意味し、そしてそのことが更に何を示唆するのかはカリタス自身にも予測のつかないことであるにも関わらず家系を貫いて秘匿してきたと云えることだった、ただ自分に受け継がせた父親からは「この世が終わるまであってはならないこと」とだけ聞かされていた、そしてそれを言うときの眼が何を犠牲にしても自らの身を投じる意味だと言っていた。

それで十分な筈であった、その意味が理解できなくともそれほどのことを内在するものを受け継ぐそのことにさえ意義を見いだせれば、そのことさえ伝えられれば、父は子に受け継がせたも同然であった、しかしその這うような十五年をオステュウムは未練も無く捨て明日に走った、修練が過ぎたのだと店の酔った客に窘められるまでもなく、その取り残された日々は息子が過ごした修行に明け暮らした日々に思いを馳せさせた、しかし盲目なまでに磨くことだけを強いた日々にいくら後悔しても、オステュウムがその受け継ぐ意味を受け入れられなかったとまでは何故か信じることが出来なかった。

時代を切り拓く文明に心を奪われる筈の若者が、結局一枚たりとも売ることもなく、売れもしなかったであろうものに一生涯を掛けて没入させられることを、家系の秘匿との理解より単に父親の妄執の犠牲のように感じ始めていたことが、変革して行く未来に置き去りにされる不安を駆り立てたのだとしても、やはりそれでも、父は子が受け継ぐその意味まで見失っていたとは思いたくなかった。

「結局は父さんだって銅板よりお酒の力で生きてるじゃないか」

オスティウムが姿を消す前の晩に言ったこの言葉には何も言い返すことが出来なかった、そして息子が憧れる世界に一言の非を打つ言葉も持てなかった自分にカリタスは心底失望した、妻は亡くなる前に自分はオスティウムの中にいると言い、それを支えに子に向き合って来た、しかし見つめていたのは子ではなく妻であった、妻の願った様に息子に優しくはしてやれなかった、やはり客の言う様にただ突き詰めるだけの師弟でしかない日々を過ごしてしまっていた、そうしてカリタスは結局妻を二度失うことになったのである。

妻と子の間に置いてやがて摺り切り蕩尽してしまったものは最早生への気力であった、そのあまりの消沈はウォルンタスやサッサに消えたオスティウムより遥かに危うく思わせ、抱える宿命的なものの一端を知るウォルンタスは考え迷った挙句に知る筋から得た話としてあろうことか子を買うことを持ち掛けたのだった、しかし自分の血を引かない子が彫れるようになるとは到底思えず、万が一にも彫れたとしても社会にまるで背を向けたような日々に収まり続けることが難しいことは取りも直さず自分の子が示しており、初めはカリタスは取り合おうとはしなかった。

「子が彫れるかどうかじゃねえ、おめえが生きるかどうかだろうよ」

友に選ばせようとしているその道が冒涜の道であることぐらいはウォルンタスも承知している、そのことで生涯に渡って偽りの言葉を持ち続けなければならないことに於いては買う者も持ち掛けた者も無傷では済まされないこととなる、しかしそれでも死をも予感させる友のその姿は、まるで飼い猫を亡くした者に別の猫を与えるが如く、それでもしや救えるのであるならばと、禁忌を侵すことに厭う気持ちなどないと云えた。

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