訪問者
その日のことを父親には何も聞かされてはいないし、問うたこともなく、後付けのような記憶さえ持っていなかった、ウォルンタスは病気だったエピの母が亡くなり父も仕事の事故で亡くなったことを薄く話したことはあったが、それを本当ではないことと直感していた、ただそれが本当の話ではないとしても本当の言葉ではないとは思わなかった、そう思わせるほどに少年はウォルンタスにも明るい陽射しを見ていた。
時に微かな光のベールが人の身体に掛かるように見えたのは随分前だが、色としてはっきり認識したのはその数日後カリタスを訪ねてシレークスという老人が来た時の事である、店がまだ開く前で中にはカリタスとエピの二人だけだった。
老人は昔カリタスの父親のところへ出入りしていた画商だと言って、むしろ自分を覚えていないかと訊いた、仮に記憶の片隅にあったとしても、それを辿る心算さえなくただ知らないと父親は素っ気なく言って取り合うつもりはないようだった、それでも老人は勧めもしないのに手近な椅子に腰を下ろすとカリタスの銅板を見せてくれないかと言った。
「今はこの通り食堂の店主でね、とうに辞めたよ」
本当に訊きたいのはそのことではないとばかりに、老人は用意していた次の問いをすぐさま
「では古いものはないかね、たとえば御父上のものかそれ以前のものとか」
その時エピファニーはそこが老人の目的だと思った、そして同時に二階の天井近いところにずっと掛けっぱなしになっている小さな銅板を思い出した、それは三枚あった、普段は父親が彫っているものばかり気にして、遠目には図柄も分からず全くツヤも失っているそれなど気にもしたことが無いほどだった。
カリタスがそれも無いと応え、店の支度が忙しいからと引き取るよう促した、
それでも老人は腰を上げるでもなくまだ昔話でもしたい風情だった。
「そうかね、辞めるなんて本当に勿体無いことだ、もうあんた以外に彫れる者はいないだろうに、そういえばあんたの上の息子さんは、なんて名だったかな、あの大湯の絵も額の銅版画もその子のものなんだろう、あれだけの腕だ、彼は受け継いだのかね」
エピはこの老人は全てを知りながら知らない振りをしていると感じた、早い夕べの食事を独り取っていたエピは手を止めて自然と老人に集中した、するとその意識に気付いたように今度はエピの方を見て、からくり人形のような目をして言った。
「なんだこの子も彫ってるじゃないか、小さいのに右手の指先の皮が厚く黄色くなってるよ、この歳でえらいもんだ」
カリタスはオスティウムとさらにエピのことまで触れられ、そのためか言葉に本当が見えてしまっているようだった。
「あんたに売るものは無い、帰ってくれ」
老人はそれでも尚
「今となっては貴重な技だ、あれは、そう、彫るだけじゃない、読めなけりゃ意味ないしな、ああそうだ、オスティウムという名だったね」
老人がその名を口にした瞬間だった、エピファニーは「いけない」と自分の心の中で叫んで父親を見たその時、こちらに背を向けている頭と身体が真っ赤に揺らいでいた。
エピファニーは自分の中の奥底から何かが出てくるような感覚に襲われ、途端嗚咽した。
「こりゃいかん、食事の最中にすまなかった、また出直すよ」
テーブルに突っ伏しながら老人のこの声は聞こえたが木戸の閉まる音が聞こえなかった様な気がした、自分に駈け寄り背中を擦る父親を無理にでも顔を上げて見ようとした、しかしその儘抱きすくめられ見ることは出来なかった。
この世界はいったい誰のためにあると云うのか、神か、生きる者すべてか、それとも強き者にか、いずれにせよそれはそう問う者には常に冷厳で静かなる朝をもってその無常を知らせる、ミラが死んだ時も、オステュウムが消えた時も自らの生きる意味を奪われるように音も無く世界は遠のいて行く。
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