エピの世界

@hagiwara_asami

第一章 最後の魔女 第一節 酒場

ウォルンタスが言うには、その者らは逃げるために子を売りたいということだった、どのみち死出の旅だろうから勝手に地の果てまで行けばいいが、子にツケが回るのは始末が悪いとも言った。

あるいは他にも繕うようなことを聞かされたかもしれないが、カリタスは歳と性別以外に何も訊く気はなかった、知りたくもなかった、有体に言えばなにがなんでも欲しいわけではなかったにせよ、ただその頃の自分を自分よりも分かっているように思える者の言うとおりにしたまでだった。

友に抱かせたまま、小さなこぶしを解くようにしているだけの顔を見て、一切が分からんずくの子は泣きもせず、そして笑いもしなかった。


「神は偽りの言葉は禁じなすったが、なにも皿の豆の数まで違えるなとは仰ってはいるめえよ」

ウォルンタスは酔いがまわるとすぐに神を出してくる。

「誰が嘘だと言ってんだ、盛りがちと少ねえんじゃねえかって話だ、ウォル、てめえの差し金だなこのやろう」

ミートパイみたいな赤黒い顔で含んだ口から酒が漏れている。

「ハイハイ、サッサったら子供みたいなこと言うんじゃないよみっともない、ほら私のを分けたげるから」

割って入ったアハバがそう言って自分のを差し出すと、太い右腕の持ち主は嬉しそうに身体を揺すった、鍛冶屋のサッサは右が左の倍ほどある。

「アハバ汝は新しき母なり!」

ウォルンタスは起立して吠えるように言う尻から卓に突っ伏すと鼾をかき始めた。

「ハイハイ、なら汝の母を敬いなさいよね」

アハバは二人よりずっと若い。

海から山裾に向かって広がるこの町の、山手を上ると或る坂の途中にカリタスの店はあった、通りに面してはいても海側に幾つもあるような洒落たバーとは異なり大衆食堂のような酒場だった、品書きもなく幾品かを繰り返し作っては適当に出すと云う、客ではなく作り手次第の店であった。

右目に眼帯をつけたカリタスは表情が分かりずらい、その重い口も客商売としては妥当とはいえない、しかしこしらえるものの申し分のなさと安さだけで客には御の字といえる。

無産階級と呼び習わされる客達はけして何も生まないのではない、要は余計な資産を持たないと云う意味で、皆その日一日自前の資源を売って俸給を得ている、西方の峰々を挟んで戦場から遠く離れたこの町では火薬の臭いこそ届かなかったが、一年余り続いた国境紛争が沈静しても関わる仕事は絶えることはなく、それは即ち終わっていないか、それとも他の火種があるのかもしれないことを匂わせており、元々永く石の産出をしてきただけのこの小さな町に近年俄かに興った製鉄とそれに付随して開花した蒸気動力の息吹がまるで国中からそういう者達を引き寄せ溢れ返るようだった。

酷使した身体を熱い湯に浸からせてから酒と食事にありつくことが何よりの果報であり、明日のことなど気にもせず皆その日の身過ぎそのものに満たされ、そして誇りに感じていた。

ウォルンタスのすぐ隣りの卓でフェーヌムという痩せた男が酔った甲高い声で誰にでもなく、しかし皆に聞こえるように言った。

「さてもこの煮豆、あのホテルユピテルの付け合わせの蚕豆にはかなわんでござるよ」

飾りの無い細い柄のスプーンから皿にこぼす仕草が芝居じみている。

「またアッパー様のユピテル自慢が始まったぞ」

すぐさま囃し立てる者がいる。

「俺はこの店のこのインゲンが気に入ってる」

サッサがギロリと見た。

「あんた、本当に行ったことがあるのかよ」

ウォルンタスは頬をテーブルに付けたままにやにやしながら口を出した、誰かのどんな独り言にもちゃんと言葉を添えるのがこの店の客の良いところである。

「この元、元ではあるが上流出のフェーヌム、あそこのドアマンとは馴染みである」

つけペンさながらに細く整えた髭のある顎をしゃくり上げ、茹でた人参のような顔で殊更に言う。

「ハイハイ、ソルなら私だってよく知ってるわよ、あんたねどうせなら支配人くらい言いなさいよ、まあその大き過ぎないとこがアッパー様のいいところよね」

呆れた様に、しかし軽く笑いで包む様にアハバがフェーヌムの骨張った肩を叩きながら応じた。

店では少しばかり毛色の違うこの男がおそらくはそう云う生まれでないことは皆察していたが、からかうことはあっても頭ごなしに打ち消すことはない、寧ろその一見貴族の落ちぶれたような風貌は、本物さえ殆ど見たことこそ無くとも自然皆の気持ちに沿うものでもあり、親しみすら込めて最上階級を表すその言葉で呼ばれていた。

事実この町というよりこの国全域でも、今や特に鉄に纏わる産業を仕切る、階級としては貴族の下に位置する資本家が取って代わるほどの勢いを占め、それどころか政は王政の儘でもその力がもはや主権にも及びだすや発布された税制が発端となって第一階位の中にはみるみる凋落する家が出始めた、働かずとも豊かな生活を無作為にしてきた者らは、資産やその相続に対する新しい収奪律に対応し切れず、有産層のように新たに身代を生み出す想像力もなく、その頂きから下る勢いは途中の棚にさえ留まらせない程であった。

今や農民の中にでさえ新興産業と云うものに手を染め始める者まであり、それはひいては農地を借りる必要がなくなると云うことでもあり、爵位があろうがなかろうが地代と云う昔乍らの利益回収しか知らないようなジェントリにとっては間違いなく重大な綻びとなった、しかも直ぐには変えられない沁みついた長年の悪癖をあろうことか資本家からの借財で辛うじて繋いでしまったことが完全に立場を入れ替えさせた。

川尻からすれば放伐された上流の話は愉快とは云え、代わって次第に流域を専有し始めた者のそれらやり口には、想えば古い優雅さを欲しがるだけの安穏とした支配だったのだと偲ばせられることにもなる、徹底した合理の追及は論理に依拠しても過ぎれば分別が怪しくなるものであり、物扱いの冷徹が身に及び始めた頃には既に国中に張り巡らされたまるで血の道の様なミドルクラス組織の支配が完成を見ており、その組織のことをいつの頃からか、そして誰とも知れず機関と呼んだ。


物足りない芝居を見せられたかのように他の客がまたフェーヌムを煽り始めると

「ハイハイ、もう勘弁してあげて」

アハバのそんな一言で法螺吹き男爵は無罪放免となる、この店に来る屈強な者達はそれこそ母親に言われるが如くこの若いむすめには逆らわなかった、様々な職に就く男女が今日一日の仕上げともいえる癒しを求めてやって来る、彼女もその一人だったが気風と機転の良さからいつの間にか給仕から勘定までもを一手に引き受けて、カリタスが店主のこの店に最早アハバ無ければ立ち行かないのは皆の知るところである。

座れなければ狭間に立って、それもなければ壁にもたれて呑んでいる、そんなまぜこぜの客の注文の全てを難無く記憶しているアハバをまやかすことなど叶わない。

「ハイハイ、ニコ、それじゃ三杯分じゃないの」

テーブルに置かれた銅貨を遠目に見ただけで客を掻き分ける背中に声をとばす

「わしゃそれだけしかやっとらんぞ」

元の色が分からないほど着古したフランネルのシャツに、片方だけのサスペンダー無ければそこには留まらないようなズボンをはいた年寄りが振り返り平然と言う

「あっそ、じゃあ明日から三杯までしか出してあげないから」

腰に手を当て顎を突き出したアハバがにたりと悪戯っぽく返した。

裏返るほどの上目を送りながら年寄りがたじろいでいると

「あとの二杯は俺のおごりだよな、また明日な、じいさん」

ウォルンタスが寝言のように言って片手をあげた。

「あんた自分のも払えないくせに偉そうなこと言って」

眉をひそめて振り返ると年寄りはもう行こうとしている

「ねえニコ、そんなかっこじゃ、まだ日暮れは冷えるわよ、これ着て行きなさい」

そう言うやウォルンタスの足元に落ちている上着を拾って軽く投げ渡した。

「おい、そりゃ俺の」

「年寄りは労わるんでしょ」

ウォルンタスには目さえくれてやらずに、身に合わないだぶついた背中を見ながら

「呑んでばかりじゃなく明日はポテトくらい食べるのよ」

見送った視線で何かを見つけたアハバが今度は振り向いて声を抑えて言った。

「ウォル、ウォルったら、なにもう鼾かいてる、ねえ起きてよ、下りて来てるわよ」

そう言われた途端、ウォルンタスとサッサはまなこの焦点を戻して顔をあげ客の隙間からアハバの言う方を覗くように見た。

ひしめく店の中では言われなければ気づかない入口の隅で、腰かけた酒樽から足が床に半分も届かない子供がこちらを見ている、戸口脇に下げられたランプに照らされて少し眩し気な表情と灰茶の髪が大人びて見えた。

サッサがさっきまでと違う神妙な声で言った。

「ありゃあきっとお怒りだぜ」

するとウォルンタスは機嫌のいい大きな声で

「いいや、あれは笑ってらあ」

へこんだピューターのカップに残った酒を空け、ふらつきながら立ち上がると振り向いて古いパインのカウンターの向こうにいるカリタスに目配せした。

ウォルンタスはその左眼の座り具合を見てから子に近づくと

「今日はいい按配の西風が吹いてるぜ」

そう声を掛けながら小さな体躯をひょいと抱きかかえ目の高さあたりに掌ほどの曇りガラスの嵌った松の重い戸を開けて外に出た、まだ水平線に焼け残る夕闇の海を遠く見下ろすその場所に春の訪れを告げるジェットストリームが吹き付け、目に見えるような上昇が昼間空にたまった靄を蹴散らしている。

通りの下で川は大きく東へうねり町を掻き分け海へと向う、途中にはいくつもの細長い塔の配われた高さの異なる三つの大円柱から成る大公の城の建つ狭く低い丘陵が北岸にあり、その裾と五連アーチの石橋で繋がれた対岸では聖堂と鐘楼の尖塔が青黒く天を衝いている。

戴冠しても王宮には留まらず、生まれ育った古城に籠る統治者を前の称号のまま呼ぶのはけして親しみからではない、かと言って毛嫌いと云うのとも違う、そう云う矛先はむしろ好き放題のミドルにではあるものの、まるで白紙委任した儘その生死さえ分からぬほど動静の聞こえなくなった主は民にとってもはや鵺的なものと化している。

ウォルンタスにとってはこの国を誰が仕切ろうが王がどうであろうがそんなことはどうでもいい、ただ気に食わないのは幼目から映すこの美しい風景の南端に醜い巨大な錬鉄の爆風炉が突如加わったことであり、更には同じ錆び色の窓の無い建造物が年を追うごとに山裾を這い上がるところまでその一群を太らせていることであり、それはつまり古来幾度もの戦乱で数多の死と引き換えに守ってきたものをみすみす自ら穢しているように思え返す返すも苦々しいのである。

しかるに北方の山岳地帯で採掘される鉱石と主に南部に多い楢の巨木を共に必要とする黒がねづくりは遅かれ早かれこの国のいずれかで始まっていたのであろう、その何れかが偶さか地理的にちょうど双方を運び込みやすかっただけのこの町だったというのは宿命というほかない、それにその忌々しい錆色の中で全身汗まみれで命を懸けているのはこの酒場に集まるようなアンダークラスの者たちであり、その懸ける意思は自らに在ってけして隷属しているのではない。

ただそう示す印も札もあるわけではないが、生まれ乍らに全て領域として厳然と存在する階級というものに疑いの余地はない、通う店から浸かる湯までが生え抜き俄かものに限らずそれを同じくする者らの営みが、町が山に向かって坂になりだす辺りから奥は年中雪を載せた山脈の入口近くまで点在しているのがそこから見渡せた。

そのともり始めたよろずのあかりの真上に現れた金星を見るともなく見ながらウォルンタスは抱いた子を下ろした。

「このごろは腕上げたそうじゃねえか」

調子よく声を掛けても子は応じない。

分かっていたとはいえ今度は少し迷いながら似合わぬ潜めた声で

「カリタスさ、あいつがそう言ったんだぜ」

「 ―—― 」

「本当さ、確かに聞いた」

間をおいてから小さな声がようやく答えた。

「そんなわけないよ」

待ってましたとばかりにより声を落として

「本当さ、嘘じゃねえ、ビュランの握りが良くなったと言ったんだ、間違いねえ」

「技とは関係ないよ」

「馬鹿野郎、大事なことなんだぞ、まずはそこなんだ、うん、あのな、俺にだって少しは分かるんだからな」

いつもの大きな声に戻って思わず覗き込んでいる。

「握りが悪いとな、刃先の入りが悪くなるんだ、親父によくそれがなってないと柄の玉で小突かれたもんだ」

そう言って自分の頭を撫でた。

「まあ、そんなことは俺なんかよりおめえはよっぽど分かっちゃいるだろうけどよ」

子はもう何も言わずに暮れゆく海の方を見ていた。

「俺んとこもエングレーヴィングの家だったがな、途絶えさせちまった、親父は愚痴ひとつ言わなかったけどよ、この話前にもしたかな」

ウォルンタスは言えば言うほど余計なことだとは気が付いていたが何か言わずにおれなかった。

「なんせこの手だからよ、あんな細けえもんが彫れるかよってんだ」

石工の掌は親指の付け根の肉が尖っている、ウォルンタスはその開いた手のやり場に困るように二度三度握っては開いた。

この無口で表情にも出さない子の気持ちの全てが分かるわけではないにしても、何か不安があるとすればひとつづつでも取り除いてやりたい。

しばらく言葉の途切れたあと

「ウォル――― 」

今日もまた何か言いたげで、でも言い出せずにいることは分かっている、しかし敢えて呼び水はせず自ずから出てくるようにと願っているのである。

「ああ」

ほんの小さくそうとだけ応えて、もっと言葉を継いでやりたいのを辛抱してじっと待つ、ここで顔を見てしまうとまた戻ってしまうのでそれも我慢して前だけ見ていた。

「怖かった —―― 戦争」

そう言われて横顔をちらと見る。

「そりゃあな、何度行っても恐ろしいな」

今度は子の方がウォルンタスの横顔をじっと見ている

「――― 殺した」

開戦から半年以上経った頃に古巣である軍からの要請でサッサと二人で前線に赴き、ついひと月ほど前に戻って以降、どうやらその辺りに興味を持っていることを感じていたし、なにか言いたげだったのはやはりそのことかと思った。

「今度も生き延びたってことは、まあそういうことよ」

このことをはぐらかすつもりはない。

「何人 —―― 」

声が落ち着いている、今日は少し様子が違う、重ねて訊くのはあまりないことである。

「そうだな」

人数までとなると露骨には言い難く淀むと

「一人、二人」

顔をこちらに向けたままにしている、人の目を見て話すなど無い。

「二人だったか」

まさか十人以上とも言えなかった。

「サッサも」

「あいつはどんくせえから一人もやっちゃいねえよ」

これもまさか自分より多いとも言えない。

「なんでえ、そんなことが気になんのか、お前が行くなんてことはねえよ」

ややこしい事情は知らないが結局は人の欲というものに端を発する戦争だ、この先も無くなるとは到底思えなかったが、仮にこの子が行かねばならないことがあるとしてもそれはまだまだ先のはずである。

「いや、絶対無いということはねえだろうがな、何事もだ、そうだ、カリタスだってもう行ってねえだろ、あれだ、俺とサッサはよ、少し事情が違ってな、前にむこうにいたからよ、金さえ良けりゃ今でも雇われてやるだけでな」

そこまで言うと子は前に向き直った、そしてほんの小さく

「お金 ――― 」

しまったとは思ったがもう遅い

「いや、あれだ、お金ってのはな、軍もな、引退した俺たちをいくらなんでもタダで使うわけにいかないって言うからよ、それに、お前んとこに結構なツケがあるもんでそれの支払いにちょうどいいってなわけだ、あれだ、もしもだ、もしもいつかお前の番がきたとしたらだ、たとえ爺さんになってたって必ず俺が代わりに行ってやるから心配すんな」

「 ――― 」

返事はせずその場にゆっくり座り込むのを見て、なぜかまた自分の中に戻っていくようなのが分かった。

「ハイハイ、なんか二人ともいい感じになってるとこ悪いけど」

いつの間にかアハバが出て来ていてすぐ後ろから声をかけた。

「そろそろサッサがやばいから、怪我人が出る前に来て」

「あいつ大人しく豆食ってるだろ」

「カリタスさんに訊いたら今日はもう無いんだって、私しーらない」

「馬鹿野郎、そいつぁえれえこった!」

ウォルンタスは慌ててふたりを残して走っていった。

それを見送って、まだ海の方を見ている子に振り替えると

「エピ、後で一緒に大湯へ行こね」

アハバにそう言われても子は膝の上に顎を乗せたまま何も言わなかった。





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