第4話 無気力な隣人
その日の放課後、教室の隅で一人寂しく反省文を書いている有栖。別にわざわざ学校に残る必要は無いが、単に家で反省文を書くという状況を作り出したくなかった。
有栖は家で完全に一人きりになれるような場所を持っておらず、常に家族の目に晒される可能性が潜んでいる。有栖にとって具体的に何が嫌かを言い表すことは少々難しいが、家族の誰かに反省文の中身を見られることは嫌の一文字なのだ。
しかし、そんな有栖も明日からはすぐに帰宅した方がましだと思ってしまうような存在がこの教室にはいた。隣の席に座っている謎の少女である。
謎といっても同じクラスの生徒であることに間違いはなく、名前も『
そんな早稲が今は有栖の原稿用紙をじっと見つめている。ホームルームが終わって他のクラスメイトが徐々に教室を出ていく間は寝ていたはずが、いつの間にか目を覚ましていたようだ。有栖が気付いた頃にはもう、隣の席の少女の目はしっかりと反省文の文字を捉えていた。
「そろそろ帰ろうかな」
あまりにも気まずい雰囲気であったため、有栖はわざとらしく独り言を言って帰宅しようとする。このまま何も言わずに居座り続けるのも耐えられないし、逆にこちらから話しかけても円滑な会話をこなす自信が無い。
有栖が席を立って筆記用具を筆箱に仕舞おうとすると不意にその手を掴まれた。目を見やるとやはり隣の早稲である。
「まだそれ書き終わってないでしょ。だから帰っちゃダメ」
「いや提出期限は特にないしあと半分くらいだからいいかなって」
「それは関係ない」
早稲の茶色に澄んだ目は有栖を真っ直ぐに捕らえていた。うなじを少し覗かせるぐらいの漆黒のショートヘアーに色素を感じさせない雪のように真っ白な肌が映える。
「私が今読んでるからちゃんと完結させて」
「完結? 反省文にそんな言葉使う人初めて見ましたけども」
「そんなことはない。いいから座って」
早稲は有栖の両肩に手を乗せて強引に膝を折らせようとした。空気を読んで再び有栖は椅子に座る。先程と変わらず気まずいどころか、早稲が有栖の背後を取ったまま動かなくなったためよりどうにもできない状況になってしまった。早稲の手は未だに有栖の肩に置かれており、実際の手の力以上の圧が感じられる。
「その名前『ありす』って読むの?」
「はいそうです」
「不思議の国? それとも鏡の国?」
「いや日本国です」
「なんで敬語?」
「お気になさらず」
早稲は初対面のはずなのに気が置けない友達同士かのように話しかける。一見他人に興味が無さそうに見える人間ほどコミュニケーション能力が高く社交的だったりするのだ。
「俺はこれを書き終わるまで帰宅できない感じかな」
「そう、私暇だから」
「暇ならずっと寝てれば良かったのに」
「……」
それから早稲はしばらく無言だったが、おもむろに腕を有栖の前で交差させてきつく締め上げた。そのとき自動的に早稲の頭は有栖の頭の横に配置され、「ぐー」というわざとらしい寝言を発しながら頭を振って擦りつけてくる。
有栖は頭部にゴリゴリとした痛みを感じる一方で、早稲の髪から放たれるベルガモットのシャンプーの香りが鼻先を掠め、ちょっといけない気持ちになってしまう。十中八九、早稲の方は何とも思っていないだろうが。
「すみません起きてもらっていいですか? ……いややっぱりずっと起きてて欲しいなあって」
「うむ、いい目覚めじゃ」
「俺は永遠の眠りにつきそうでしたけどね」
有栖の首から手を離した早稲は自分の席に戻ってぐったりと机にうつ伏せる。両手をだらんと下に垂らしたまま「疲れた」と呟いた。
「疲れたならもう帰った方が良くないか」
「でも桜を待たないとだし。それに頭がガンガンして動けな……」
そう言いかけて早稲は再び眠りについてしまった。頬を机にぴったりとくっつけたまま目は閉じられ、眉間に寄っていたしわも消えて穏やかな表情になっている。普通の女子は、自分の寝顔をよく知らない男に晒したくはないだろうが、早稲はそういった恥じらいというものは持ち合わせていないようだ。この周りを気にせずに気ままに過ごす姿は猫を思わせる。
(というか桜って誰だ? 委員長と同じ名前だけどまさか本当にあれに友達がいるのか)
気になる有栖であるが、既に早稲は眠ってしまったのでどうすることもできない。ついさっきまで仲睦まじく話していた縁もあり、このまま帰ってしまうのもなんとなく気が咎める。したがって有栖に残された選択肢は一つ……ペンを持って再度反省文の続きを書き始めることとした。
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