第1話「猫」

 彼の前世は、猫。


 三毛猫の中の三毛猫。


 美人ならぬ美猫。


 周辺の地域を支配し、統べる者。猫のおさ、的な存在。


 名前は、汎艶ハンイェン


 輝夜かぐや公園周辺地域の南地区に住んでいた。


 野良猫だ。


 人間に飼われていたらおさにはなれない、というルールがある。


 汎艶は幸せに暮らしていた。母と父と弟と、三人で。


 毎日が楽しかった。


 弟の名前は、栖陽スバルと言い、元気がよくて、汎艶ととても仲が良かった。



 でも……ある日、汎艶の母親は殺された。元々病弱だったのだが、剣で斬られたような傷跡を残して、死去した。


 暫くして殺したのは栖陽だと判明した。


 ――否、栖陽が独自に開発した呪術で、人間を操って殺させた。


 汎艶と同じ〝猫〟という動物だ。


 無論、剣を使用することは不可能だ。


 それからのこと、汎艶は栖陽を憎み、殺意まで湧いていた。


 栖陽を許さなかった。


 大好きだった母親を殺したのが、弟であろうと誰であろうと関係なかった。


 そして、汎艶は人間を操る相手に対抗するには、それ以上の何かが必要だと考えた。


 その何かとは――汎艶、そして栖陽の父親だった。


 彼らの父親は、普段は仕事で、家族といることがほぼなかった。


 猫が仕事をするなんておかしな話だ。


 しかも、それは人間を補助する仕事だった。


 まあ盲導犬の猫バージョンの「盲導猫もうどうねこ」といったところだろうか。


 犬には劣るが、人間より遥かに嗅覚が鋭い。


 それに、人間なら入れない狭い所へも楽々と侵入できる。


 父親は、人を助けるのが大好きだった。


 それは、父親が人間に近い感性を持っていたからであろう。


 通常、猫は人間とはかけ離れた感性を持つ。


 思考の内容も甚だ異なる。


 猫は、あまり命を惜しまない。


 命を軽視している。


 でも父親は違った。


 自他の命を大切にしながら生きていた。


 それは、遺伝か何か知らないが、汎艶もそうだった。


 食べ物にありつけず、自暴自棄になっている者に、食料を与えた。


 決して自分自身が裕福ではないのに。


 飼い主が残忍な性格で苦悩する猫には、優しく慰めの言葉を与え、それからその飼い主を爪でひっかいた。


 川に溺れた人間を救出するため、大声で鳴き助けを求めたこともあった。


 自分にとってメリットであるかデメリットであるかなど関係なかった。


 ただ許せなかった。


 でも栖陽は真反対だった。


 何の理由もなく人間は嫌い。


 他の猫にも、あまり興味を示さない。


 栖陽だけではない。殆どの猫はそうだった。


 汎艶の母も、死別した幼馴染も、人間は『ただそこに在るだけ』だった。


 だから栖陽は、人間を――ただそこに在るモノを利用したのだ。



 ――汎艶の母は、無残に殺されていた。



 なぜ殺したのか栖陽に問うと、「ムカついたから」と冷淡な返事をされた。


 猫は命を大切にしない。


 それがなぜかは誰にも分からない。


 もちろん猫にも分からない。


 猫は家族をも容易に殺せてしまうのだ。



 汎艶が父親に、母が死んだことを告げたとき、自分の妻だというのに、泣かなかった。


 それどころか、何も言葉を発さなかった。


 やはり父親も皆と同じなのか。


 汎艶は一度はそう考えたが、それでは人間の手助けをする理由が分からない。


 何か思うところがあったのだろうか。


 よく分からなかった。


 汎艶らの父親は、昔から喧嘩が強かった。


 野良猫は、抗争を始めることが多い。


 しかし、父親はあまり他人を傷つけたくなかった。


 父親は、その強靭なパワーをもって栖陽を圧倒した。


 栖陽は人間を操っていた。


 が、それでも到底勝てる相手ではなかった。


 猫が生身で人間に勝つのは不可能だ。


 自身が人間の姿となったのだ。


 自分で動かすのだから、操るよりも精度が高い。


 あっという間に栖陽の頸にナイフを突き刺していた。


 暫く栖陽は叫び声をあげていたが、すぐにその声は止み、沈黙が流れた。


 ……死んだのだ。


 すると、人間に変身した化け猫はこちらを振り向いた。


 汎艶は喜びに満ち溢れていた。


 父親も表情からそれが見て取れたのだろう。


 しかし、父親の方は悲しい顔をした。


 憐れむような、まるで可哀想な子猫を見るような目で汎艶を見た。


「なんで? なんで僕を見てそんな顔をするの? お母さんを殺したやつが死んだんだ」


「ごめんね……」


 汎艶には分からなかった。


 理解できなかった。


 なぜ目の前の父親が謝るのか。


 父親はそれほど、母親の命を大切にしていたということなのか。


 でも、その目は一体……。


 まだ、汎艶は気付いていなかった。


 父親が悲しい顔をしたのは――憐れむような顔をしたのは、汎艶が大量の血を浴びて、不気味に笑いながら、狂気じみた顔をしていたからだということを。


 汎艶に向けた父親の目からは涙が流れていた。


 そして――


「――ごめんね……」


「や、やめて……」


「ごめんね……」


「な、なんでお父さんは、謝りながら僕にナイフを向けられるんだ?


 わかるよ。殺気が物凄い。


 僕を殺すんだろ。お父さんもきっとあいつと同じなんだ」


「……っ。ごめんなっ――」


 ザシュッ。


 父親は、汎艶の胸をナイフで切った。――何度も謝罪しながら。


 汎艶はその意味を理解できぬまま、死に絶えた。


 ……そして汎艶は死ぬ間際、あり得ないものを見た――気がした。


 あり得ないとわかっていたのだが……父親が自分の腹へナイフを向けたのが見えたような気がした。


 でも、それじゃあ僕を殺した意味がないじゃないかと、汎艶は考えた。


 汎艶は家族と一緒に仲良く暮らしたかっただけなのだ。


 それなのに、その家族の二人から、何もかも奪われてしまった。父親には、彼の命さえも…………。



 ……それからのこと、汎艶はよく怒るようになった。


『それからのこと』というのは、汎艶の命がまだ続いていたことを指すのではない。


 死んだが、別世界に転生したのだ。


 いわゆる、異世界転生。


 それも、ある能力付きで。



 その能力とは――――『死ぬとランダムで何かの動物に変身する能力』だった。

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