マスクド恋愛
江戸川台ルーペ
🔹
いつの間にか我々は付き合うようになり、然るべき理由により別れた。付き合い始めから別れるまでの間は諸々と差っ引いて三ヶ月半といったところだ。差っ引いて、というのは連絡を相互にとらなくなった時期を半別れた状態として勘案した結果である。正確に言えば二月四日に付き合い出して、五月二十八日に別れた。別れた翌日は僕の誕生日だった。
同期の間で付き合う、というのはいわば禁じ手の一つとされているが、少なくとも我々の間にタブーというものはなかった。お互い何かしらの好感を持ったから付き合う。それが自然な人としての振る舞いであるし、職場内恋愛は禁止という制限が目に見えた形で目につくことはなかった。例えば社員全員に配布される社内規則が細々とした字で印刷されている手帳にも、出社時にタイムカードを通す機械が置いてあるスペースにも「社内恋愛は禁止」という記載はどこにもなかった。なぜタイムカードを押す機械のスペースを引き合いに出したかというと、そこには大きな字で標語が掲げてあり、出社する者全員が否が応でもその文字を目にしなければならないからだ。
「マスクの下は いつも笑顔♪☺︎」
彼女は小さくて律儀な字を書く事務職で、僕は外回りを担当する営業だった。交通費を請求する際、彼女から提示された書類に記載されている文字を見た瞬間、僕は恋に落ちた。角はしっかりとした角度を付けて曲がり、跳ねは遠慮がちにプールに飛び込んだモモンガを思わせる可愛らしさがあった。全体的に丸っこいが、文字を読みやすくする為のギミックが一文字づつに潜められており、僕にはそれがどれほどの心配りであるのかがすぐに分かった。
「素敵な字を書くね」
と僕が褒めると、彼女は
「どういたしまして」
とつまらなさそうに答えた。
どういたしまして?
🔹
それから紆余曲折があり、最初に記した日程の通りに付き合い始め、そして別れた。諸々差っ引いた三ヶ月半だ。そうして手短なメッセージのやり取りで我々の関係が精算されたあと、僕は彼女がマスクを外した顔を見た事がない事に思い至った。僕たちはデートをしたり、食事を一緒にする事もなかった。ただ一方的に僕が告白し、軽いノリで「別にいっすよ」と言われただけだ。茶髪で誰にもタメ口をきく彼女は事務所内でも不思議な存在だった。見た目も悪く無ければ、仕事ぶりも普通だ。でも、その小さな手で書かれる字が可愛いと思っていたのは僕だけだったのかも知れない。僕は別れた後、彼女の事を遠くから何度か眺めた。僕が見る事ができなかった素顔のあらましが少しでも知りたいと思って。でも、もちろんそんなものは分からなかった。鼻と口を隠すベージュや白、薄いピンクのマスクは頑強に彼女の顔の全貌を隠した。彼女は時々僕と目が合ったが、まるで壁掛け時計を眺めるような顔をして目を逸らした。そうしてしばらくした後、彼女は家庭の事情で会社を辞めた。
🔹
数年経って、もうマスクをしなくて良くなった頃、郵便局へ切手を買いに代々木神宮前を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「元気?」
一瞬誰か分からなかったが、別れた彼女だった。僕は驚いて、元気だよ、今何しているの、などと普通の世間話をした。あれから彼女の行く末を知っている者はいなかったし、年末進行の忙しさに話題にも上らなかったのだ。
彼女は春らしい出で立ちで、明るく幸福そうな表情をしていた。僕はしばらく話をして、それじゃまた、と別れる時に、始めて彼女と出会ったような気がした。
マスクド恋愛 江戸川台ルーペ @cosmo0912
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