未来と過去

玉樹詩之

 未来と過去 

 ある日突然、僕の目の前に二人の僕が現れた。一人は幼く、一人は老けている。そうして彼らはこう言った。「僕は過去から来た」「僕は未来から来た」と。

 全く奇妙な生活が始まった。これで実家暮らしだったら両親は卒倒しただろうが、幸い僕は一人暮らしで、大して僕の素性を知らない隣人や大家が覗きに来たって、親戚が遊びに来ているのか。くらいにしか考えないだろう。

 実家暮らしだったらどうとか冷静にこんな分析を行っている僕だが、正直まだ整理が付いていない。と言うか当事者である僕が一番混乱しているのは当然のことなのである。聴者はこれをエンターテインメントや架空の話として聞き入れることが出来るのだろうが、今目の前に未来と過去の自分を一遍に見ている僕は、誰よりも困惑して良い権利を与えられているのだ。

 と、文句ばかり言っていても仕方が無いので、今はとにかく彼らが本当に未来と過去の僕であるのか、そして何しに現在の僕に会いに来たのかを聞かなくてはならない。そんな強気な意志を持ちながら、僕は二人に茶を出すのであった。


「それで、君たちは何をしにこの時代へ?」


 僕はなるべく威厳を示しつつ、この時代の主は自分であると言わんばかり、どっしりと構えて茶を啜った。


「僕は未来がどうなっているのか見に来たかった。それだけだよ」

「僕は過去を清算しに戻って来た」


 なるほど、それぞれにちゃんと理由があったらしい。ところで彼らの年齢だが、過去の僕は恐らく中学一年生、思春期の盛りと言ったところだろうか。そして未来の僕は職を辞した六十歳中盤から後ろと言ったところだろうか。そして格言う僕は三十三歳。丁度未来と過去の中間と言ったところなのだろうか。そんなことを考えながら、早速核心を聞き終えてしまった僕は手持無沙汰になり、茶を啜った。


 それから数日経ってみると、案外彼らは生活に馴染んだ。過去の僕はどこからどう見たって確かに過去の僕なのだが、こんなにも勤勉だったのだろうかと疑うほど生真面目な少年であった。それに反して未来の僕は何もせず……。何て言うことは無く、未来から持ってきた現金で僕の生活をより良くしてくれた。そのため僕たちの生活には微塵の辛苦も生じることは無く、寧ろ現在の僕の生活は潤っていった。

 こうなると僕自身自由気ままなもので、彼らに害が無いと分かると、何も束縛無く彼らを野に放つ決心がついた。はじめのうちは何かやらかすのでは無いかとも考えたが、それはただの考え過ぎに終わり、僕は多少恥ずかしい気持ちになった。何故なら野に放ったのは他ならぬ自分自身であり、彼らが何かをしでかすはずが無いのだ。彼らに疑念の眼差しを向けてしまったという事は、自分を疑うことに直結してしまう。しかしそこでふと思う。僕はそこまで僕を信じて生きてきたのだろうか?

 外を歩き回る彼らはこの世界に順応しており、誰も未来と過去の僕だと疑うものは存在せず、それどころか僕の親戚なのでは無いかと疑う人物もいなかった。それほど人間は年月を経て変わる生き物であるという事なのだろうか。顔つきもそうだろうし、知力もそうだろうし、体躯もそうだろうし、一番は何だろうか。それは計り知れない。何故なら時を経て僕が変わっているという事は、他の人も時の流れによって変化しているからである。だからこそ人が人を見る目は毎秒変わるのである。それは自分が自分を見る目も例外ではない。

 未来を見に来たという過去の僕。過去を清算しに来たという未来の僕。数日前に核心を問うたは良いものの、彼らは何をもってそれに終了を告げるのだろうか。その目標にたどり着くことはあるのだろうか。二人とも僕自身であるのに、僕は全く心理を掴めない。彼らは大まかな目標を示唆しただけで、もしかしたら本当の目標は別にあるのかもしれない……。

 気を遣ってなのか、二人の僕は僕が仕事の無い日は家に居た。そして未来と過去について時間をかけてじっくりと話し合うのであった。


「未来の僕はどうなっているのですか?」


 大抵過去の僕がそう切り出す。僕も未来について気になるのだが、未来の僕は詳しくは話さない。


「そうだな。と言っても大それたことは何も無い。仕事を転々として、死なない程度に金を稼ぎ、そして今に至る」


 大体がこれに似た言葉で片付けられる。僕と過去の僕は視線を合わせて、「またか」と、心の中で呟き合う。


「もっと詳しく教えてもらうことは?」

「それは出来ない。未来は自分の目で見るほうが楽しいぞ」


 未来の僕は決まってこう言うのであった。


「じゃあ僕が未来を見に来たのは失敗なのですか?」


 確かにその通りである。その返答では未来の僕は過去の僕を否定することになってしまう。


「そう言うわけでは無い。確かにここは、君からしたら未来と言う場所だが、ここに来ている君自身は紛れもなく今を生きているということになる」

「はぁ……?」


 勤勉な過去の僕も、流石に何も言い返せずに息を漏らすだけであった。


「つまりは生きている自分を大事にしろという事だ」


 未来の僕は微笑みながらそう言った。それを聞いた僕はもっと未来について知りたいと思った。未来が分かれば今の自分を大事に出来る。過去を深く理解すれば今の自分を愛せる。僕はそう言う結論に至った。よし、ならば今度は一対一で話せる機会を作ろう。僕はそう思いながら談義に戻った。


 いつまで彼らは居座るのだろうか。ふとこんな心理が過るとき、それは居座って欲しいという心理なのか、それともさっさと帰って欲しいという心理なのかと考えることがある。僕自身居心地が悪いわけではない。しかし何故だろう。微かな胸騒ぎが僕の焦燥を煽るのである。

 仕事を終えて家に帰るその帰路で、ボロアパートの自室の窓から薄明りが漏れているのが普通になった。一カ月前ではありえなかったことだが、今となってはそれが常識であり、もう少し時間が過ぎれば、遠い昔からこうだったのだと錯覚するようになるのだろうと僕は思った。

 自室の鍵は空いており、「ただいま」と言うと、「おかえり」と、二人の僕が返す。はじめは不気味だと思ったこの空間、反響、景色も、今では安らぎに近いものを僕の心情に与える。明かり一つ、言葉一つ、人間一人いるだけで、誰かの心を浄化できる。僕はつい最近知ったのだ。モノと言うのは存在するだけで意味があるのだという事を。

 男三人。それも全員が同じものを根底に持っている三人がいるとなると、不可能なことも出てくる。それは料理であった。これは一人で暮らしていた時から唯一頭を抱える事象であり、今でもそれが上達する兆しはなく、それは過去の僕も未来の僕も同じであり、僕たちは毎晩コンビニ弁当を食した。それを食べながら自分について話すこともあった。今日はどんなことがあり、こんな成功やこんな失敗があり、それがこう纏まって、一日が終わった。と言う具合に、僕の仕事内容を話すのが常であった。


「今日はあまり失敗が無かったのですね」


 過去の僕は飯を頬張りながら笑顔でそう言った。働き盛りの将来の自分がミスなく帰ってきたことが嬉しかったらしい。


「あぁ、今日は調子が良かった」

「だが気を抜くな。明日は失敗だけに終わるかも知れないからな」


 気分よく終われるかと思うと、絶対未来の僕が釘を刺してくる。これも日常の一部となりつつあり、毎晩行われるこの反省会に近い談義が、翌朝の僕のテンションを変える。言ってしまえばこの二人の言葉には自信と不安が込められており、それが夕飯を食べている僕の心の天秤にかけられるのだ。過去の僕が優勢になれば、自信いっぱいで朝を迎えることが出来、逆に未来の僕が優勢に終わると翌朝は不安に支配されて目覚める。これは全人類に共通していることかもしれない。過去を思って眠りに就けば自信が漲り、未来を考えて眠ると暗雲のような不安が心を曇らせる。過去は自信を暗示し、未来は不安を暗示する。これこそ人類共通項なのだ。しかしそれでもその二つに頼ってしまう。それもまた人類共通項なのかもしれない。


 そんな日々を送って一カ月と半分が経ち、過去と未来に挟まれる生活に慣れ親しもうとしていた時、僕は早退して早く帰ってきた。すると自室には過去の僕しかおらず、未来の僕の姿は見当たらなかった。


「未来の僕は?」


 そう問うと、過去の僕は首を横に振った。


「いない。夜まで帰って来ないって」

「そうか。じゃあ二人で少し話そうか」

「はい、ですが仕事の方は?」

「今日は早退だよ」


 僕はそう言うと、あまり調子の良くない微笑を浮かべてスーツを脱ぎ、十数分後には畳に胡坐をかいて過去の自分と対峙した。


「中学校は、楽しかったっけ?」


 彼の顔を、過去の自分の顔を見たとき、僕の口からは自然とその言葉が漏れ出ていた。体の調子が優れないせいではない。僕は今、過去と対峙すると同時に、栄光と対峙しているのである。過去の僕は、確かに優秀な生徒であったのだ。


「楽しい。と思いますよ」

「生真面目だな。目上の人には敬語を使うなんて。まぁそれは今も変わらないけどさ。でもなんだか、案外昔の僕はしっかりしていたのかって思い出せたよ」

「僕はただ、中学生活を普通に送っているだけです。良き人生を送るため、勉強して部活に励む。それが健全な中学生では無いですか?」

「はは、確かにそうだ。そんなことを考えて学校に通っていたな。あの時は優等生の部類で、成績も上位、運動も出来る。そんな僕だったな」

「今は違うのですか?」

「今はそうだな。過去の栄光にすがりたくなるほど落ちぶれているよ」

「僕は栄光なのですか?」

「あぁ、あの時の僕は輝いていたよ」

「本当にそうですか? 目を背けている部分がありませんか?」

「背けている部分か……。でも過去ってさ、思い出して優越に浸るものじゃないのか?」

「ではあなたはその優越に浸り、それを今に活かせているのですか?」

「いいや、思い出して、あの時は良かったって思うだけさ」

「ならばやはり、僕は栄光では無いのでは?」

「じゃあ何だ?」

「今のあなたの心を揺るがしているものを思い浮かべてください。過去に栄光しか無いのなら、あなたは迷いなく今を生きているはずです。成功者の人生を歩んでいるはずなのです。しかし現実はボロアパートで独り身。お世辞にも成功しているとは言えません。よく考えてください。栄光もあり、そしてもう一面があるからあなたは僕を思い出すのです」

「君を思い出す……。あの時の僕は、そうか、ずっと独りだった」


 勤勉で律儀な過去の僕は堅物であった。それ故に臨機応変や、アドリブ力と言うものを解さず、クラスの枠から外れていた。人の感情は絶えず動く。若ければそれは尚のことである。しかし当時の僕はその動き回る枠に付いて行くことが出来ず、いつの間にか疎外されていた。成績もよく運動も出来た僕は、いじめられるということは無かった。しかし確かに、僕は独りであったのだ。

 何でも出来るという栄光の裏に、孤独の影が日に日にその色を深め、距離を伸ばしていた。思えば今もそうなのかもしれない。僕は過去の栄光を見ているフリをして、実はその背後に揺れる暗澹たる影を見ていたのかもしれない。あの時は出来た。昔は違った。そう思えば思うほど、過去の栄光は燦爛とその輝きを増し、それにつれて闇の誘惑も強まった。僕はいつの間にか、過去の自分を神格化しようとしていたのかもしれない。過ぎ去った時間と言うのは、自由帳のようなものである。どうとでも改変出来、見たくないものは黒く塗り潰してしまえば良いのである。しかしいつかそれを冷静に俯瞰した時、加筆と黒塗りの多いことに驚くのだろう。


「過去はあなたの人生の軌跡です。振り返ることも重要ですが、そこに今はありません。回顧するということは、あくまでも人生の教訓を拾い上げることなのです。それを持って向かうべきは、未来だけなのです」


 考え込む僕の耳に、念仏のような過去の僕の声が入って来る。それはすんなりと僕の脳内に浸透し、そしてそのまま心にまで染み渡って行った。そうして目の前に焦点を合わせたときには、過去の僕はいなくなっていた。


 栄光と影。人生を振り返るといつもその二つが僕たちを見つめている。それは表裏一体で、僕のように栄光へしか目が行かない者もいれば、影へしか目が行かない者もいる。しかしそれらはどちらも認めなくてはならない過去の自分なのである。どちらかだけに目を向けてはならないのである。どれだけ善い過去を持っていようとも、寸分の悪い過去は存在し、どれだけ悪い過去が目立とうとも、一寸の善い過去が存在するのである。

 過去の僕がいなくなってから一日が経ち、未来の僕が帰ってきた。彼と二人きりになると言い知れぬ不安が僕の心に満ちた。すがる過去はもうおらず、僕は過去の僕から得た教訓を持って未来の僕と対面する他無いのである。

 未来の僕は昨夕過去の僕が座っていたところにドカッと腰を下ろした。そしてじっと僕のことを見つめる。その瞳は栄光の背後に伸びる影の如く、何ものをも飲み込む黒さであった。


「彼は帰ったのか?」

「はい、昨晩」

「そうか。今君の心に残っているのはなんだ?」

「過去の栄光とその影。そして未来への不安です」


 善悪の過去を認めるという教訓を得た僕は、素直にそう答えた。


「先の見えぬ未来。それを不安がるのは誰しもそうだ。恥じることは無い。しかし何故不安に思うのか考えたことはあるか?」

「……それは見通せぬからでは?」

「それもそうだ。だが真意ではない。そこには希望が共存しているからだ」

「希望が?」

「そう、希望だ。それが不安を煽るのだ。過去の栄光が影を生み出すように。未来の希望が不安を生み出すのだ。多くの人間は過去にすがり、未来に不安を抱く。そう、君のように。だからこそ、僕たちは君の前に現れたのだ」

「どうすればこの不安が消えるのですか? 過去は認めることで乗り越えられることを学びました。しかし未来は対処のしようがありません。何故なら一秒後に何が起きるか予測することは出来ないのだから」

「未来は乗り越えるものではない。対処するものでもない。未来は楽しむものなのだ」

「楽しむもの。ですか」

「未知を愛し、未知に寄り添うのだ。しかしそのためには何が必要だと思う?」

「勇気。ですかね」

「それも大事だ。未知に踏み込む勇気。それが無くては始まらない。しかし一番大事なのは今を生きることだ」

「今を。ですか?」

「月並みなことだが、それが一番難しい。今を生きることが出来なかったから、僕も、過去の僕も、ここに来たのだ」


 未来の僕は優しく微笑みながらそう言うと、まるで空気に溶け入っていくかのように消えて行った。そうして現代の僕は一人残され、一度深く深呼吸をして立ち上がると、建付けの悪い窓を手際よく開いて満天の星空を眺めた。闇夜の中で輝く星は、いつもより眩い光を世界に降り注いでいた。これが今なのだろうか。僕は心の中でそう呟いた。


 彼らがいなくなって数日、僕は多少の物悲しさを覚えながらも徐々に現実へ引き戻されつつあった。彼らは実在していたのだろうか。今になってそんなことを考える。一緒に暮らしていた時は微塵も考えなかったことなのだが、彼らは僕の妄想が生み出した過去と未来の僕なのではないかとも思う。僕が今を生きることに悩み、過去と未来にばかり目を向けてしまっているが故に生み出されてしまった化身なのかもしれない。しかし実体の有無など関係ない。見えもせぬ神を信じる人々がいるように、存在しない未来と過去の僕を信じたって良いわけなのだ。大事なのは信仰でもなく、過去を顧みることでもなく、未来を案ずることでもない。今をどう生きるか。人間にはそれしか無いのだ。いくら考えようとも、足掻こうとも、人間は今しか生きられない生き物なのだ。今を謳歌したものが、豊饒な過去を得ることが出来、望む未来を見ることが出来るのである。

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