方程式

玉樹詩之

 方程式 

 彼女は僕を愛しているのか分からない。僕も彼女を愛しているのか分からない。ただそれでも、僕と彼女は付き合っていた。

 出会ってからすぐに僕たちは付き合い始めた。勿論この恋愛には僕の意志も彼女の意志も反映されていない。事の始まりはくだらないいじめからだった。僕も彼女もいじめられていた(と言うよりかは、避けられていた。と言う方が正しいのかもしれない)。二人とも勉強も運動もそつなくこなすことが出来、素行もよく、教師陣からの信頼も厚かった。それ故に、(これは後々知ったことなのだが)裏でのあだ名はロボットだったらしい。これを初めて知った時の僕と彼女は、馬鹿らしくて微笑み合った。

 そんな僕たちの出会いは高校二年の春であった。何故高校二年なのかと言うと、それはこの手の「避ける」と言ういじめが持つ最大の特色が関係していると思われる。普通いじめと言う行為を人間が犯す時、外見が気に食わなかったり、喧嘩をしたり、性格が合わなかったり、等々、即時性を有する理由でそれに発展する。しかし僕たちの場合は少し違う様に思う。初めは静かな人なのだろう。と周りの人々は思う。しかし月日が経つにつれて僕や彼女のような人種は「つまらない人間」として捉えられてしまう。質問をしても淡白な答え、ジョークを言っても笑わない、大勢で集まると空気を乱さないように何も発さない、にも関わらず勉強と運動は出来る。となると第三者は、避ける。と言う手段を選ばざるを得ないのだ。なぜなら口は開かないのに自分よりも高いパフォーマンスを発揮してしまうからである。それにこう言ったつまらない人間は、上の人間に良く好かれる。なので、いじめが表面化すると上の人間に咎められるのだ。だからこそ、彼らは僕をいない存在として扱い始めた。そしてその状態に至るまで、おおよそ一年がかかる。という事から、僕と彼女は二年の春に出会ったのであった。

 これは本当に偶然だったのだが、なんと僕たち二人は二年時にクラスメートになったのである。そして一目で互いのことが分かったのだ。「避けられている」と。そう分かり切っている僕たちだったが、話し始める理由が無かった。お互いに理由が無ければ他人に話しかけない性格だったため、僕たちはずっと教室の端と端で存在を認知し合うだけの関係であった。そんな僕たちを見て、少しだけいじめらしいことが起きた。それは陰口である。「私たちのクラスにはロボットが二体いる」だとか、「ロボット同士で仲良くすれば良いのに。あ、でも無理か。感情が無いから」とか、「型番が違うから取得言語が違う。だから結局あいつらは孤独だ」とか。僕たちが似た者同士だと思わせつつも、結局お前たちはロボットで、主の指示が無ければ動けないポンコツ。「孤独そのものだ」とでも言いたげな主旨の遠回しな陰口がちらほら聞こえた。そのおかげで。と言っては変な話だが、僕の心が少し動いた。そう、彼女と話す動機が見つかったのだ。これは同情などではない。興味だ。そう、僕の心に彼女に対する興味が芽生えたのであった。そしてその時理解もした。大仰な喜怒哀楽は無いけれど、些細な喜怒哀楽であれば、それは未だ僕の心に存在するのだと。まだ僕の心が鉄に支配されていないのだと。

 それはどうやら彼女も同じだったらしい。放課後の教室で僕が初めて彼女にコンタクトを取った時、彼女は少し笑っていた。勿論誰にも見られないように彼女は笑っていた。彼女の笑顔を見ることが出来るのは、僕だけの特権だとその時思った。なぜなら人前では、僕と彼女はロボットになってしまうからである。たとえ僕たちがそれを否定しようとも、周りが僕たちのことをロボットだと決めつけてしまっている以上、僕たちにはどうしようも無かった。


「私も話しかけようと思っていたの」


 放課後の教室で珍しく居残り勉強をしていた彼女に話しかけたとき、こう答えられた。


「陰口が聞こえたから?」


 僕はそう返した。すると彼女はクスクスと淑やかに笑い、頷いて応えた。


「別に敷かれたレールの上を走っている自覚は無いでしょ?」

「うん、もちろん。勉強をすること、教師の指示を聞くこと。それらが僕の為になると思っているからそう行動している」

「良かった。一緒で」

「じゃあ今考えていることも一緒かな?」

「だと思う。でもこう言うのって、男の人から声をかけるものでしょ?」

「そうとは限らないと思うけど……。でも今回は僕から言うよ。こうして歩み寄ったのは僕だったわけだし。僕たち、付き合ってみよう」

「うん。ふふ、でもあんまりその言い方は好きじゃ無かったかも」

「それでも良いだろ。恋愛に前例何て無いんだから」

「そうかもね。私たちの恋愛を探しましょう」


 彼女はそう言うと、白くてしなやかで、それでいてか細い右手を僕に差し出した。僕はそれに対して、ゴツゴツと骨ばっている右手を差し出した。そうして二人は誓いのキスならぬ誓いの握手を交わした。

 それからしばらくの間、僕と彼女は付き合っていることがバレないように放課後の教室で静かに語り合う日々を送った。話せば話すほど、彼女は僕に似ているような気がした。しかしどこか僕と違う気もした。それは根本的な性という部分なのだろうか、それとも彼女が取り繕って僕に合わせているのだろうか。それとも僕が無意識に彼女に合わせてしまっているのだろうか。初めのうちは正解を探すためにベッドの中で小一時間考え込むような夜もあった。しかし数日も経てば、それはとんでもない愚行だという事が分かった。恋愛とは、思考だけで成立するような行為ではない。時には理性を殺し、本能に従わなければいけない時もある。つまり彼女との相違点は理性で解決できる問題では無いという事だ。これから徐々に徐々に彼女と僕の色が交わって行くうちに分かることなのだ。それにその相違点が二人を分かつような重大な決め手となるようには到底思えないことも、この結論を後押しした。

 一か月近く付き合った結果、僕たちは恋愛関係のような親しさでは無いことに気が付いた。それはほとんど同じタイミングで、打ち明けられたのであった。


「私思うの。今の関係は友人関係じゃないかって」

「うん、僕も思っていたよ」


 共に微笑みを零しながら、僕たちは自分たちの現在の関係を明確化した。しかしそこまでたどり着いたこと自体は良いものの、僕たちはこれから先の関係が全く分からなかった。恋人とは、互いに何を施し合えば恋人と呼び合えるのだろうか。僕たちは考えた。だが答えは出なかった。それは恐らく理性では無く、本能が嗅ぎ出す事象なのだろう。

もし理性だけで答えを出そうとするならば、僕が心の中で彼女に願っていることを、口に出さずとも彼女が実行してくれる。それが互いに施し合うという事なのだと僕は思う。逆も然りで、彼女が何を思って行動しているか、それに対して僕はどういった行動を取るか考える。これこそが潤滑な恋愛関係なのだろうと、その時の僕は考えた。

 僕は考えたことを彼女に伝えた。すると彼女も同意した。となるとやることは一つであった。それは即席で編み出された意思疎通ゲームである。今僕が考えていることを彼女が当てる。その次に、彼女が考えていることを僕が当てる。これを毎日会ってすぐに一回だけ行った。もちろん「今君は、僕が考えていることを当てようと考えている」と言うような答え方はなしだ。これではゲームが成立しない。なので、僕がしっかり考えた後に彼女が当てる。そのあとは彼女が真剣に考えていることを僕が当てる。と言う風にゲームを行った。その結果、僕たちは一週間それを行って、互いに一度も言い当てることが出来なかった。ここでまた僕たちは学び、一歩前進することが出来た。「現在の親密度では当てられない」と言うのは愚かである。もしかしたら一生言い当てることが出来ないまま結婚するカップルだっているだろう。つまり心が通じ合うことと愛し合うことは全くの別物だと理解することが出来た。だからと言って僕たちが、愛し合う。と言う行為や感情に至るまでにはまだまだ道のりは長いような気がした。

 それからさらに一カ月が経つと、僕たちはただの友人として、ただの恋愛研究者として放課後の教室に集まっていた。会話のテンションは部活動やサークル活動の仲間内で行われているものに近く、傍から見ても僕たちが恋愛関係であるようには見えなかっただろう。それに僕たちが集まるのが放課後の教室であるが故に、誰の目にも留まらないのである。これでは付き合いたての意気が消沈してもおかしくはない。今のこの状況で何が必要かと考えた結果、周知と自覚。これが足りないのだと結論付けた。筋書きとしてはこうだ。クラスメートたちが噂話をし始める。となると嫌でも僕たちは互いを意識し合う。ここで自覚が生まれる。いや、誤解と言った方が正しいかもしれない。僕は、私は、彼女が、彼が、好きなのかもしれない。こう言った勘違いが僕たちには必要なのだと気が付いた。世のカップルも、やはりこういう状況に追い込まれ、そのまま川の流れに身を任せるように付き合い始める者たちもいるだろうと思う。そう考えると、恋愛に勘違いは不可欠なのでは無いかとも思えてくる。「君は今こう考えている」と、愛している人に言われたら、もしかしたらそう考えていたかもしれない。と思えてきてしまうのかもしれない。

 こう考えた僕たちは、昼食を一緒に食べることにした。そうすることによって、まずは周りが意識し始めるのを期待した。そして噂話を始めたなら、それはもう僕たちの思った通りである。しかし思った通りに事が運んで良いのだろうか。とも思う。なぜなら周知と自覚。の内の「自覚」が困難であるような気がするからである。僕と彼女が今現在付き合っているということを強く自覚するために、まずは周りに認知してもらうように行動する。これを行い、果たして僕たちは勘違いすることが出来るのだろうか。意図的に起こした環境下で、僕は彼女のことを愛している。と勘違いすることは出来るのだろうか……?

 事を起こしてみると、案外僕の心は揺れ動いた。それと同時に、これは人間の心がしっかりと僕に宿っていることを示していた。「あの二人付き合ってるんじゃない?」「最近すげぇ仲いいよな」「もしかして結構前から?」そんな噂話が出始め、僕は確かに彼女を意識し始めていた。彼女は僕のことをどう思っているだろう。僕の気持ちを彼女に知らせたい。何故だか急にもどかしい気持ちで心がいっぱいになった。これが勘違いの力なのかもしれない。そう考える理性の裏側では、彼女が好きだ。と言う確信に近い本能がどんどん隆起していた。

 そんな意識が芽生えた放課後、僕は一度お手洗いに行って気持ちを落ち着かせてから教室に戻った。彼女はいつも通り自分の席に腰を下ろしてノートを見返していた。僕は教室のスライドドアを閉めながら生唾を飲み込んだ。そしてドアを閉め終えると、ゆっくり彼女の前の席まで行って椅子を引き出し、そこに腰を下ろした。


「どう、だった?」


 少し震えている自分の声に驚いた。しかし平静を装うために僕は言い切った。そしてあたかも喉の調子が悪いだけだ。と言わんばかりに咳き込んで見せた。


「その、なんだろ、少し息がしづらい」


 彼女はそう言って笑った。それも今まで見た中で一番自然な笑みだった。僕はそれを見た瞬間、彼女が人間なのだと思い、僕も人間なのだと思った。誰かをときめかせる行動が自然と出来て、その行動に対して自然とときめくことが出来る。僕は人間としての生を実感した。これが生きたいという感情で、これが誰かを愛するという事なのかもしれない。そう思った。


「僕も、少し変だ。今すぐ学校を飛び出して、家に帰らず遊び明かして、翌日は学校をさぼってどこかで過ごしたい気分だ」


 要するに、僕は彼女とどこかに行きたいのだと思った。しかし僕は言葉の中に彼女。と言う単語を入れることはしなかった。なぜなら言わずとも彼女に伝わると思ったからである。


「私も。今の全てを投げ出したい。そして壊したい。そんな気分。誰の命令にも従わず、広大な大地を走り回りながら心を燃やしたい」


 抽象的に彼女は僕に同意していた。つまりはお互いに勘違いすることに成功したのだ。いや、これは体験すれば分かることなのかもしれないが、本当に彼女しか見えない状態が続いていた。周りがいくら勘違いだと揶揄しようとも、当人同士はいつも本気で互いを想う。これが愛し合うという事なのかも知れない。無機質だった僕の心は、恋愛と言う潤いを求めていたのかもしれない。これが例え恋愛で無かったとしても、誰か他人のことを大切に想う。これが人間の心をより良く成長させる肥料なのかもしれない。僕と彼女の心は今、確実に成長していた。それが実感できるのも、恋愛の良いところなのかもしれない。

 均等に並ぶ教室の窓からは、夕日が差し込んでいた。心の内をさらけ出した僕と彼女は、夕日に溶け込むお互いの顔を見て言葉を失った。文字通り、脳内から言葉と言う言葉が消えたのであった。互いの脳内には、自らの唇が相手の唇に重なるイメージだけが浮かんでいた。夕日に燃える頬、夕日が艶美に見せる唾液に濡れた唇。僕と彼女は無意識のうちに唇を潤していた。そしてその反射に惹かれるように、僕たちは静かな呼吸のひと手間に瞳を閉じ、触覚だけで互いを感じ合った。

 しかし翌日になると、憂鬱な気持ちが僕を襲った。何故彼女とキスをしたのだろう。僕は目覚めてすぐにそう考えた。確かにあの時、僕は彼女を世界で一番愛おしく思っていた。だが今となっては素直にそう考えることが出来なかった。これから先のことを考えると、僕は急に彼女を突き放したくなった。これも誰かを愛するという事なのだろうか。この不安定な心こそ、恋愛をしている証拠なのだろうか。

 はたまた学校に着いてみると、僕の心に不安の影が伸びれば伸びるほど、彼女に会う嬉々とした光も濃くなっていた。今日は何を話そう。でも昨日のアレをどう説明しよう。いや弁明する必要は無い。だがもし彼女の気持ちが変わっていたら、昨日のキスを思い出して僕を避けるかもしれない。しかしそれは考え難い、彼女だってあの時、僕を世界で一番愛おしく思っていたはずだ。そんなことを考えていると、いつの間にか教室にたどり着いていた。

 スライドドアを開くと、静かな教室が僕を迎えた。どうやらいつもより十分ほど早く登校してしまったらしい。僕は自分の席に着き、鞄を机の上に置いて一息ついた。すると廊下側の席からも同じようなため息が聞こえた。そこでようやく僕たちは互いの存在を認め合った。


「あ、おはよう」


 ほとんど反射的に僕はそう言った。


「おはよう。全然気づかなかった」


 彼女も挨拶を返すと、微笑みながらそう言った。そんな彼女を見て、僕はやっぱり彼女のことが好きなのだろうと思った。


「なんか落ち着かなくてさ」

「私も。昨日はすごく恋しかったけど、今日はなんだか一人になりたくて」

「全く一緒だ」

「でも結局、二人きりになっちゃったね」

「今あのゲームをしていたら、僕たち二人とも大正解だったね」

「だね。ゲームも上手く出来ないし、心も上手く扱えない」

「とても不思議だよね。心って。友人みたいに話していた時はとても近くに感じたのに、相手を意識するようになったら突然君が遠く……。いや、僕が君から遠のいて行っているように思うんだ。愛していると自覚すればするほど、愛していると自覚しなくてはいけないような義務感を覚える。一種の洗脳みたいなものなのかな。僕は今、本当に心から君を愛しているか分からないよ」


 言葉が天から降って来て、それらが雨のように僕の頭蓋を打ち、次第に脳に染み渡り、神経を通って僕の口から飛び出した。まるで何かに憑かれたように、僕は淡々と彼女に本心を打ち明けていた。


「分からない。うん、分からない。私もあなたを愛しているか分からない。こうやって今のことだけを考えると、とても楽しい。でも、これから先のこと、例えば一秒先だってそう。今現在より先のことを考えると、とても苦しいの。今は愛していても、数秒後、数時間後、数日後にはあなたを愛していないかもしれない。そう考えると辛いの」

「とてもぼんやりとだけど、僕もそんなことを考えていたよ。もっと深く踏み込むと、君を愛している僕を愛せない。今はそんな感じだ。自分から君を手放したくなくて、早く僕の腕から君が抜け落ちてくれないか。君の意志で僕から遠ざかってくれないか。なんて考えたりもした。惨めな自分を見たくなくて、君を悪者にしようとしていたよ」

「私もそうだったのかも。あなたが私を嫌いになる未来も、私があなたを嫌いになる未来も、どちらも拒絶しているからこそ、今が不安で満ちている」

「でもその不安が」

「幸せの証拠なのかもね」

「うん、やっぱり君と僕は似ている。これからもこうやって心が邪魔してくるかもしれないけど、君となら乗り越えられる気がする」

「うん、でも私は心を邪魔なんて思ったことは無いよ。これが無いと私とあなたは一生結び合えないもの」

「そうだね。本当にその通りだ」


 まだまだ不可解なことは多いけれど、僕と彼女は一旦そう結論付けた。これからもこの結論は二転三転と変わって行くことだろう。なぜなら僕たちは不定の数字で、心は不定の記号であるからだ。ある時はマイナスでも、僕たちが変われば、心持が変われば、それはプラスになれる。僕たちは今、たった一つの方程式を解いたに過ぎないのだ。これから先もっと多くの答えを出さなければならないだろう。それが例え正解だったとしても、不正解だったとしても、僕たちはその結果を受け止めて前に進まなければならない。

 愛はいつも霧に隠れており、手探りでも視覚でも捉えることは出来ない。だからそもそも分かる、分からない。の次元の話では無いことに気が付いた。愛は感じ合うものであり、理解し合うものでは無いのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

方程式 玉樹詩之 @tamaki_shino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ