ウサギの子とカメ

うたう

ウサギの子とカメ

 姿勢を低く保ち、強く大地を蹴って前へ跳ぶ。着地の衝撃を脚のバネで吸収し、その反動でさらに遠くへ跳ぶ。それを繰り返すとスピードはぐんぐんとあがっていく。

 迷ったら跳べ。母にそうしつけられて育った。考える暇があったら跳びなさい。跳んだら、駆けなさい。そう言われ続けてきた。実際、これまではそれで迷いは風景に溶けてきた。

 僕はなぜ走るのか。そんな迷いを消したくて、懸命だった。もっと速く、もっともっと速く。足を止めてしまったら、転んでしまうくらい前のめりになって跳び続けた。でも迷いは消えてなくならない。

 僕の父はカメに負けた。

 父のことは覚えていない。僕の物心がつく前に、母は父と離婚した。おそらくカメに負けたことが理由なのだろう。

「カメに負けたウサギの子」

 子供の頃、よくそう馬鹿にされた。だから跳んだ。跳んで駆ければ、そんな中傷は聞こえなくなった。

 チーターに勝ちかけたウサギ。

 それが今の僕の二つ名だ。もう一度やれば、次は勝てそうな気がしていた。

 ――少し前までは。


 僕自身の速さを証明するたびに、父はなぜカメに負けたのかという疑問が頭をもたげる。父も相当に速かったそうなのだ。でもカメに負けた。

 油断して勝負の途中で居眠りをしたのだと、その理由を母は無表情で教えてくれた。

 カメが相手なら僕もきっと油断するだろう。駆けるまでもない相手だ。居眠りする余裕だってある。でもよっぽど深く眠り込まなければ、カメに遅れを取ることはないはずなのだ。

 思うに、父は勝負を放棄したのだ。でも父がなぜ走るのをやめたのか、その理由がわからなかった。そしてこの疑問は同時に、僕はなぜ走るのかと問うてくるのだ。

 子供の頃は馬鹿にされたくなくて、どのウサギよりも速く走った。犬に負けなかったのは、母に喜んで欲しかったからだ。馬との勝負を受けたのは、なんでだったか。


 僕は慌てて体を斜めに傾けた。考え事をしていて、カーブに差し掛かったことに気づくのが遅れた。飛ばしすぎていて、もうスピードを落としても曲がりきれそうになかった。体の側面が地面に付きそうになるくらいまで体を倒して、バランスを取りながら急角度に折れて切り抜けるしか、もう手段がなかった。

 しかしそれでも間に合わなかった。バランスを崩した僕はそのまま草むらに転げ出、何度も地面に体を打ちつけた。静止するまでに何度地面を転がったのかわからない。

 草むらに伏せたまま、呼吸を整えようとすると体中が痛んだ。

「びっくりした。大丈夫かい?」

 のんびりとした声がして、それから草の擦れる音が迫ってきた。

「大丈夫そうではないね。痛そうだ。全身擦りむいてる」

 現れたのはカメだった。

 カメは起き上がろうとする僕を制止した。

「ここで待っていて。薬草を持ってくるよ」

 カメはのそのそと遠ざかっていく。

 どれだけ待たされるのかと覚悟していたけれど、意外にもカメはすぐに戻ってきた。

 僕はカメに礼を言って薬草を受け取り、傷口に揉み当てながら訊いた。

「君んちは、すぐそばなのかい?」

「いいや。今日はいい天気だったからね。遠くまで散歩しようと思ってね。そしたら君が転げてくるもんだからさ。驚いたよ」

「ちょっと待って。じゃあ、薬局が近くにあるのかい?」

 でもこのあたりに薬局があるとは聞いたことがなかった。

「ないんじゃないかな。ひょっとして、薬草がもっと必要かい?」

「違うよ。この薬草はどこから持ってきたのかなと思って」

 カメは目を丸くしていた。

「その辺に生えてるのを採ってきたに決まってるじゃないか」

「この辺にも生えているんだね。知らなかった」

 僕にとって草むらはコースの外でしかなかった。まともに目を向けたことがなかった。

「それにしても今日はいい天気だね」

 僕は頷いた。

 天候には敏感なのだ。乾いた土のほうが跳ねて駆けやすいから。 

「見てごらん。雲ひとつないよ」

 カメが短く太いてを空に向かって伸ばしていた。

 僕は空を見てわかった。

 父はきっとこれを見たのだろう。勝負の途中に寝そべって、空を見上げた。そして空の澄んだ青に見惚れたのだ。今の僕がそうであるように。

「ありがとう」

「気にするなよ。そこらに生えてた草だ」

「薬草のこともそうだけど、今言ったありがとうは違うよ」

 カメは首を傾げた。

 カメは、低い姿勢で地面ばかり見て走ってきた僕に空の美しさを教えてくれた。

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ウサギの子とカメ うたう @kamatakamatari

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