思ってはいけない思い。

@BD_0504

###

「お元気でしたか、先生」

 そう話す彼女と、この場所で会うのは何度目だろうか。彼女が学生だった頃は、毎日のように顔を合わせていた気がする。

 あの頃の彼女は活動的で、僕の制止を振り切って廊下を走り回っている、とにかく手のかかる子供だった。毎日同じ狭い場所に通って、有り余ったエネルギーを発散していたのだろう。変わらないのはキリッとした凛々しい目つきと、その目にかかる前髪も含めて癖がなく真っ直ぐと伸びた栗色のロングヘアー、そして無駄に色白な顔色。

 その顔色を見るたびに、僕はいつも心を振り動かされるような緊張に襲われる。

「先生、結構老けたね」

 そう言って彼女はヒヒ、と引き笑いをする。子供の頃から彼女の特徴的な笑い方は変わっていなかった。何度か、そんな笑い方だと周囲から浮くぞと注意したことがあった。それでも彼女は僕の言うことを聞かず、彼女の笑い方はこれまでずっと直らなかった。僕ももう、指摘することを諦めていた。

「そりゃ、君がそんな立派な大人になるくらいだからね」

「なにそれ、立派な大人って。あ、先生またいやらしい目で見たでしょ」

「そういうの、今どき本当に洒落にならないからやめて」

「何よ今更、私の裸見たくせに」

「だからすごい誤解呼ぶ言い方じゃん」

「だってあの頃私、まだ16だったんだよ」

「僕は必要なところしか見てないから」

「おっぱい見たじゃん、十分じゃん」

「そんなに嫌だったなら断れば良かっただろ。ていうかこの話もうやめてよ、心臓に悪いよ」

「私の前でそんなこと言うんだ、へー。じゃあもっと思い出話する。何がいいかな。あ、バレンタインのお返しで先生、ホワイトデーに気合の入ったチョコくれたでしょ」

「俺、きみにどんなチョコ渡したっけ」

「六本木だったか表参道のヒルズで買ったっていう、すごい高いチョコ。チョコっていうかショコラ。宝石箱みたいな箱に入ってるショコラで、あと紙袋が頑丈で。なんでも入るから私、あれ持って学校行ったら他の先生にからかわれたんですよ。社会人の彼氏でもいるのかって。先生、あれ恋人にあげるような高いブランドって知ってた?」

 相変わらず勢い任せに薄い内容を喋り倒す彼女の口撃に、思わず僕は手にしたボールペンで額を掻いた。いつもこの調子だ。一度話し始めると僕が遮るまでこの子は話をやめない。そうしていつも彼女のペースに飲まれてしまう。あれは彼女と初めてこの部屋で出会ったときから、いつもそうだった。彼女は水を得た魚のごとく、何を喋っても怒らない先生を見つけて、ひたすら喋り続けるようになった。彼女の口からは永遠に補充される言葉という弾丸が永久に発射され続け、まだ年端も行かない子供相手にどう接すればいいか分からなかった僕は、彼女の舌の根が乾くまでサンドバックにされるしかなかった。もっとも、乾かぬうちに彼女の言葉という弾丸は永久に補充され続けていたけれど。とにかくあの頃の僕にとって、彼女と会う日は正直憂鬱だった。

 でも彼女の言葉を聞き続けているうちに、彼女に夢中になっていく自分もまた、心の隅にいた。彼女とまた会えればいいのにと、思ってしまった自分がいた。そんなこと、思ってはいけないのに。

「ねえ先生、最後の質問。もう少し年が近かったら、私のことちゃんと相手してくれた?」

 そういって覗き込む彼女の瞳に、思わず引き込まれそうになる。たちの悪い相手に捕まってしまった。

「―――君が健康な子だったら、ね。でも頑張ったじゃない。血液検査の結果も、異常なしだよ」

 僕は彼女に検査結果の紙を見せ、彼女が余計なことを喋り始める前に伝えるべきことを淀みなく話し続けた。彼女が子供の頃から患っていた病気は僕が担当した手術でも完全に治しきることができず継続治療を受けていた。しかし数年前に開発された新薬は劇的な治癒効果が現れて現在までに無事に完治、そしてこの経過観察期間で再発などの心配もようやく無くなった。これまで定期的に様子を見てきたし、時には入院治療で辛い思いをさせたけれど、そんな日々も今日でようやくおしまいだ。

 とても、いいことだ。病気とは必ず治せるものではない。常に向き合い続ける人や、一生の終わりをこの病院で終わらせることになる人もいる。そんな中彼女は間違いなく幸運だった。足繁く通い続けたこの部屋に二度と来なくていい。それは間違いなく彼女にとって幸せだ。

 だが、なぜか彼女はこの部屋で喋り続けるし、僕も真面目に制止しようという気が出ないことに気づいていた。多分、お互い未練がある。この時間だけもっと続けたいと甘えている。

 ―――でも、腹を決めるしかない。

「さあ、今日の診察は―――」

 そう開いた僕の口に、彼女は真っ直ぐ人差し指を当てた。

「まだ、話したい」

 彼女の瞳がかすかに潤んでいた。

 僕は、彼女の細い手を掴み、下ろした。

「―――もう、終わり。おめでとう」

 彼女が顔を伏せた。その瞳から何か流れたかもしれない。多分、僕の見間違えだろう。

「ありがとうございました、先生」

 顔を伏せたまま、彼女は部屋を出ていく。

 その扉が閉まる寸前、彼女はこちらを見てつぶやいた。彼女は微笑んでいた気がする。多分、僕の見間違えだろう。

「また来るよ、先生」

 でも、見間違えでなければいいと思った。そんなこと、思ってはいけないのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

思ってはいけない思い。 @BD_0504

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ